『瞬を見ていられない。俺はもう 今の瞬には近寄れない。俺は――自分で自分がわからなくなる……』
星矢の声で口伝えに言われたのであっても、その言葉の意味――重大な意味――は、十二分に瞬に通じた。
氷河のその言葉を知らされた瞬は、氷河の懊悩振りを知らせてくれた星矢の前で 呆然としてしまったのである。

氷河が憎んでいる人間の顔になったというのならともかく、瞬は、氷河の大切な人と同じ顔を持つようになっただけなのである。
それが、氷河をして、『もう 今の瞬には近寄れない』と言わせほどの事態を招くとは――そんな事態を生じることになるなどとは、瞬は想像もしていなかった。
もちろん、他人の顔をした自分を見て氷河が喜ぶ様を目の当たりにすることは ひどく悲しいことだろうとは思っていた。
それで自分は苦しむことになるだろうとも思っていた。
だが、こんな結果だけは――こんな事態になることだけは、瞬は考えていなかったのだ。
これで氷河に愛してもらえる、これで氷河に好きだと言ってもらえると、瞬はそれだけを――そうなることだけを考えていた。
そうなることだけを、瞬は願っていたのだ。

「自分から『好きだ』って言えばいいだけのことなのに、氷河に言わせようなんて姑息なこと考えるからだぞ!」
「だって、僕……」
氷河の言葉によって与えられた衝撃のせいで止まりかけていた瞬の涙が、星矢の非難のために、再び瞬の瞳を濡らし始める。
星矢は急遽、瞬への難詰を取りやめた。
これ以上 瞬に泣かれては――瞬の兄ほど瞬の涙に慣れていない星矢には対処の仕様がなくなってしまう。

「しかし、氷河がおまえに惚れるのはわかるけど、おまえまでが いつのまに氷河に惚れちまってるんだよ! しかも、そんなに思い詰めるほど。おまえ、氷河のどこがいいわけ?」
さめざめと泣き崩れる瞬の前で 為す術もなく おろおろしているくらいなら、瞬の恋の生育報告を聞かされている方が はるかにましだ――と考えて、星矢は瞬に水を向けてみたのである。
なにしろ、星矢の趣味は、こんな時でもやはり、『真理の探究』だったのだ。

瞳を涙で潤ませたまま(だが、かろうじて、その瞳からあふれさせることなく)、瞬が星矢に問われたことに ぽつりぽつりと答え始める。
瞬が瞬きをするたびに、その瞳から涙が零れ落ちることになるのではないかと はらはらしながら、星矢は瞬の話を聞くことになったのだった。

「僕は……僕は、小さな頃から周囲の環境や人の意見に流されやすくて、いつも人の顔色を窺って生きてきた。自分の本当の気持ちを言葉にしたり 自分のしたいことをして、人と対立したり衝突したりするくらいなら、自分は我慢して、人に逆らわずにいる方がいいって考える 臆病な人間だった」
「まあ、確かにおまえにはそういうとこあったよな。泣くだけ泣いて、結局 我慢しちまう癖」

『泣いてもどうにもならない(だから、泣くな)』とは よく聞くセリフである。
実際、星矢は、死の兄がそう言うのを幾度も聞いたことがあった。
だが、瞬に関しては――特に幼い頃の瞬には――それは無意味な叱咤だった。
聖闘士になる前の瞬は、泣くことで――泣きさえすれば、あらゆる理不尽や不条理を諦め受け入れてしまえる子供だったのだ。

「でも、本心から望んでそうするわけじゃないから、胸の中には いつも小さな不満がわだかまってた。僕は、そんな自分が嫌いだった。嫌なら嫌って言えばいいんだ。なのに、争いを恐がって、ほんとの気持ちを人に伝えず、泣いて諦めて、でも、いつまでも嫌だ嫌だって思い続けてる。そんなのみっともないし無様なことだって」
「そっか……」

では、瞬は、泣いて、諦め切る・・ことはできていなかったのだ。
今になってその事実を知らされた星矢は、なぜか安堵に似た思いを抱くことになったのである。
瞬はそこまで――自分の心を殺しきるところまで――諦観や厭世感に支配されてはいなかったのだと。

「でも、氷河は僕とは違う。……星矢も違う。僕はいつも僕の仲間たちに憧れていたんだ。氷河みたいに、星矢みたいに、紫龍みたいに、兄さんみたいになりたい――って。星矢たちは、確かな自分の意思を持っていて、他人との衝突を恐れずに、自分が傷付くことも恐れずに、それを言葉にもするし行動にもする。本当に憧れてたんだよ。僕、星矢たちに」
「……」

それは もしかしたら無知な子供の我儘や無鉄砲だったかもしれないのに――と、星矢は言ってしまうことができなかった。
まだ潤んだままの瞬の瞳には、確かに 彼の仲間たちに対する憧憬の輝きがたたえられている。
少し気恥ずかしさを覚え、星矢は小さく咳払いをした。
「そ……その中で、なんで氷河なんだよ」
「だって……。氷河が優しくしてくれたから――」
「へ?」
「氷河に優しくしてもらって嬉しかったんだ、僕……」
「……」

今日は思いがけない情報が次から次に飛び込んでくる。
おかげで、星矢の『真理の探究』趣味は大いに満たされ続けていたが、これは その中でも特に驚愕に値する大事実だった。
「優しくしてもらって嬉しかったから――って、おまえ、そんなことで あの氷河に惚れたのかよ? そんなことで 人が人に惚れたりなんかできるもんなのか?」
「……」

星矢の素朴な疑問に、瞬は目許を少し赤くして――おそらくは羞恥のために――、同時に ひどく悲しげに、その顔を俯かせただけだった。
実際、瞬はそれで氷河を好きになってしまったと言っているのだから、今ここで その是非をあれこれ考察してみても始まらない。
憧れ続けていた人に優しくされたことが嬉しくて、瞬は恋に落ちた。
たまたま それがマザコンで名を馳せた変人の氷河だったというだけのこと。
その恋を間違っていると言うことは、神にもできることではないだろう。
ともかく、瞬は氷河を好きになり、その恋を実らせるべく努力し、そして、採るべき方策を間違えてしまったのだ――。

「サガのところに行って、氷河に撃った幻朧拳を解いてくれって頼むしかないだろ。話はそれからだ。俺も一緒に行ってやるからさ」
正直、自分の恋を実らせるために黄金聖闘士を顎で使うような人間を “周囲に流されやすく臆病”と評していいのかどうかという疑念は、星矢の内に糢糊として残っていたのだが、人間の自己認識など所詮はその程度。
人は、自分の大切な人や好きな人、影響力のある人に対する自身の態度や反応のみを“自分”だと思い、眼中にない人間に対する自分の態度がどういうものであるのかを意識することはないのだろう。
そして、その自己申告の通り、氷河に対する瞬の態度は、確かに臆病そのものだった。






【next】