「僕の勝手な都合で 何度もお手を煩わせてしまってすみません。氷河にかけた幻朧拳を解いてくださいませんか」 サガに対する瞬の態度が非常にへりくだったものになったのは、アンドロメダ座の聖闘士が 目上の者への礼儀を思い出したからなのか、自身の我儘傲慢を反省したからなのか、あるいは瞬が双子座の黄金聖闘士の持つ力を認めたからだったのか。 いずれにしても、二度目にサガに対峙した時の瞬の態度は、丁重を極めた、実に しおらしいものだった。 だが、そんな瞬に与えられたサガの返答は非情この上なく、実に残酷なものだったのである。 「幻朧拳は、ある条件が満たされないと解けないことになっている」 深刻な顔をして、サガは瞬にそう答えてきたのだ。 「そんな……。幻朧拳は幻朧魔皇拳とは違うものなんでしょう? だから、僕は――」 幻朧魔皇拳は、敵から平時の判断力を奪い、その者の目の前で誰かが死なない限り解けない技。 幻朧拳は、敵に幻覚を見せて翻弄する技。 そう認識していたからこそ、氷河に幻朧拳を撃ってくれと、瞬はサガに頼んだのである。 だというのに――。 「確かに、幻朧拳は、幻朧魔皇拳のように誰かが死ななければ解けないというものではない。人の死までは必要としない。自分自身の死に匹敵するほどの衝撃を受ければ、幻朧拳はすぐに解けることになっている」 言い換えれば、それは、氷河自身の死に匹敵するほどの衝撃がなければ、氷河の目を元に戻すことはできない――ということである。 だが、それほどの衝撃を いったいどうやって作り出せばいいのか。 それ以前に、瞬は、氷河にそんな衝撃など受けてほしくなかった。 「ぼ……僕……」 まさか、自分の無思慮がこんな事態を招くことになるとは。 瞬は、恋を失ったショックとは全く異なる種類の衝撃に――まさに自分自身の死に匹敵するほどの衝撃に――打ちのめされることになってしまったのである。 呆然として両の肩を落とした瞬を見やり、サガが微かに眉をひそめる。 双子座の黄金聖闘士は、瞬の犯した過ちは、『聖闘士として』というより『人間として』致命的なミスであると思っていた。 致命的ではあるが、軽率すぎるミスでもある。 十二宮戦双児宮での対応からしても、冷静と賢明をその身に備えていることの明白なアンドロメダ座の聖闘士が これほど初歩的なミスを犯すに至った訳を、正直、サガは察しかねていたのである。 「――君はなぜ、こんなことを考えたんだ。キグナスの母親になりたいなどと。君が君のままでいれば、キグナスにはそれで十分――。……いや、そもそも君には こんなことをする必要はなかったはずだ。キグナスが君にイカれていることは、聖域では知らぬ者とてない事実なんだからな。人間は自分らしくあるのがいちばん――」 「楽ですよね」 瞬の口調が挑戦的な響きを帯びることになったのは、瞬が、他でもない自分自身に対して激しい憤りを覚えていたからだったろう。 氷河の心を勝手に操ることを企てたために、氷河に要らぬ憂苦を負わせ、あまつさえ自分の恋まで失うことになってしまったのだ。 瞬が平常心でいられるわけがない。 「……うん?」 アンドロメダ座の聖闘士は、人なつこく物腰やわらか。 ――というのが、黄金聖闘士の間での共通した、瞬の人物評だった。 そのアンドロメダ座の聖闘士の、あまりにも彼らしくない 突き放すような口調、敵に挑みかかる獣のような険しい眼差し。 アンドロメダ座の聖闘士の“敵”が、今 彼の目の前にいる双子座の黄金聖闘士でないことは サガにも見てとれていたのだが、それにしても瞬のその言葉と眼差しはサガには意外に思えるものだった。 「自分らしさなんて、そんなもの、いったい誰が決めるの! 自分自身が決めるの !? 僕が自分のことを『弱くて臆病な人間』だって決めて、その通りに生きることにどんな意味があるっていうの!」 「――君は、自分のことをそんなふうな人間だと思っているのか」 「他にどう思えというんです!」 『噛みつくように』とは、こういう様を言うのだろう。 手負いの獣のような 「人は自分らしく生きていればいいとか、自然体でいればいいんだとか、そんな考え、人間として最低の逃避行為だ。いちばん楽で、いちばん卑怯な生き方だ。僕はそんなふうになりたくなかった。もう そんなふうでいたくなかった。自分でないものになりたかった。だから、僕は――だから……」 だから、『待つだけ』『流されるだけ』の自分でいることをやめ、氷河の心を手に入れようとした。 否、それが叶えば、自分は自分でないものになれるかもしれないと、瞬は期待したのだ。 そうして――そのささやかな期待のせいで、瞬は取り返しのつかない事態を招いてしまったのである。 「だが、誰かのようになりたいと願うのも、不毛なことだぞ。人はどう足掻いても自分にしかなれない」 瞬が犯した過ちは、かつてサガ自身が犯した過ちでもあった。 善そのものの存在になろうとして、逆に巨悪を生んだ。 随分と無駄なまわり道をしたものだと、サガは、今になってやっと自嘲気味に思うことができるようになっていたのだ。 瞬が犯した過ちは、サガには他人事で片付けることのできるものではなかった。 「わかってる……そんなこと、わかってる。氷河が愛してるのがマーマの姿形じゃないことだって、僕はちゃんとわかってる。でも、じゃあ、僕はどうすればよかったの! 氷河は、僕とマーマの区別がつかないって! だったら、いっそ同じになってしまえば、少なくとも僕は、僕として氷河に愛してもらうことはできなくても、マーマのように愛してもらえるようにはなるかもしれない。そう思ったから、僕は――」 周囲に流されやすく、他人に逆らえない瞬。 そんな瞬にとって、それは、懸命に勇気を奮い起こした上での、瞬なりに必死な、決意と行動だったのだ。 それが、見事に裏目に出てしまっただけで。 「わからんな。キグナスごときのために。君を望む人間は、他にいくらでもいると思うが」 双児宮での戦い振りだけを見ても、瞬が氷河より優れた判断力を有しているのは疑いようのない事実である。 アンドロメダ座の聖闘士が白鳥座の聖闘士にそこまで入れ込む訳が、サガにはどうしても理解できなかった。 が、人の価値観というものは人それぞれである。 「僕が望んでいるのは氷河だけなのっ。氷河しかいらない! 僕は氷河が好きなんだから!」 揶揄にもとれるサガの言葉に、瞬は大声で怒鳴り返してきた。 「……」 瞬が弱く臆病になるのは、どうやら白鳥座の聖闘士に対してだけであるらしい。 黄金聖闘士を 「――やはり、君は君のままでいるべきだと思うが。自分らしさと言うなら、君は、キグナスのために君だけができることをすべきなんだ。いや、既に、君はそれをしたではないか。異次元に飛ばされた彼をこの世界に引き戻したり、カミュの凍気で凍りついた彼の命を取り返したり――あんな無謀な荒業は君にしかできないことだぞ」 からかうようでありながら優しいのか、優しいから からかうような口調になるのか。 ともあれ、瞬に助言を与える双子座の黄金聖闘士の眼差しは ひどく温かく、かつ非常に優しいものだった。 “清濁併せ呑む海千山千の男”の思いがけない優しさに、瞬は胸を衝かれる思いを味わったのである。 「僕は……」 そうすればよかったのだと、今では瞬にもわかっていた。 他人の手を借りて氷河の心を変えようとするのではなく、自分自身の言葉と行動で、自分は それをすべきだったのだ――と。 いつもの瞬であったなら、そうすることができていたかもしれない。 だが、氷河が、死んでしまった人を引き合いに出してきたから――生きている人間には決して勝てつことのできない人を瞬の隣りに並べて語ることをしたから――瞬は最初から自分を“勝てない人間”だと決めつけ、その上で、そんな自分にふさわしく――自分らしく――愚かなことを考えてしてしまったのだ。 「でも、僕はもう――」 瞬の瞳に涙がにじんでくる。 「気付くのが遅すぎたみたい……」 「そんなことはないと思うぞ」 泣いて諦めかけていた瞬に そう言ってくれたのは、瞬が憧れ続けた某白鳥座の聖闘士だった。 |