interlude -幕間の時代-

- I -







その奇妙な人物が、氷河の住む北の国にやってきたのは、あともう少し――あと ほんの少しだけ この寒さに耐えれば冬も終わるという時季。
氷河は、10歳の子供だった。
そして、『もう10歳だから』というよりも、『まだたったの10歳だから』こそ、氷河は自分を既に子供ではないと思っていた。
それほどに、氷河は幼い子供だった。

3年ほど前から、100人ほどの住民がいる小さな村の外れにある小さな家で、氷河は母親と二人きりで暮らしていた。
父は知らない。
氷河の母は若く美しく、だが、病気がちで、だからなおさら氷河は、自分は母を守れるほどに大人でありたいと望み、現にそれができている自分を立派な大人だとも思っていたのである。

その奇妙な人物は、背が高く、体格も優れ、地味ではあるが 上等の服を着ていた。
短い夏に懸命に麦や野菜を育て、冬場にはウサギやキツネを狩って かろうじて命をつないでいる この村の住人たちには一生縁がないだろう、黒い鹿革でできた くるぶしに届くほどの長い外套。
王様や貴族というものは毛皮を着ているはずだから、この男はおそらく身分の高い聖職者か何かなのだろうと、氷河は根拠もなく思ったのである。
その男が、木のテーブルと椅子と、竈を兼ねた小さな暖炉の他にはほとんど何もないといっていいような氷河の家の居間にあがり込み、氷河を見て言うことには、
「この子は聖闘士になる運命のもとに生まれた子だ」

「せいんと……?」
氷河は、咄嗟に自分が何を言われたのかが全くわからなかったのである。
少なくとも、それは、この村には存在しないもの――ということは、とりもなおさず“必要のないもの”だった。
「聖闘士というと……女神アテナの?」
母は『聖闘士』が何であるのかを知っているらしい。
氷河が母の顔を見上げると、粗末な木の椅子に腰掛けていた彼女は僅かに首をかしげ、その手で息子の金色の髪をそっと撫でてきた。

「以前、この村に来る前に、バイカル湖を渡る船が沈んだことがあったの。マーマは赤ちゃんの氷河を抱えて、その船に乗っていた。その時に、たまたま岸にいたアテナの聖闘士が、たった一人で、船に乗っていた人たちを全員助けてくれたのよ。岸は近かったけど、季節は真冬。水に落ちていたら、みんな死んでいたでしょう。私も氷河も。信じられないような力を持った、それでいて、驕ったところのない優しく素晴らしい人だったわ」

“優しく素晴らしい人”。
それは、そうだろう。
父の無い子を産んだ女と蔑まれている女を、他の者と区別せずに助けてくれてくれたというのであれば。

「ふぅん……」
母とその子がどういう立場の人間なのかを知らなかったから、その“せいんと”は不幸な母子を助けてくれただけだったのかもしれない――という疑いはあったのだが、氷河はそれよりも、母の言う『信じられないような力』というものに心惹かれたのである。
母を守り助けられるほど強くなりたいというのが、氷河の唯一の望みだった。
『せいんと』の『信じられないような力』があれば、自分の望みも叶うのかもしれないと、氷河は思ったのである。

見知らぬ男は、母の話を聞いて瞳を輝かせた氷河に、
「その力を手に入れたかったら、ぜひ聖域に来たまえ」
と言い、氷河の母には、
「あなたのご子息を聖域に預けてほしい」
と告げた。
彼の魅力的な申し出に胸を弾ませた氷河とは対照的に、氷河の母は、自分の小さな息子が女神に選ばれたことへの誇らしさよりも、不安の思いの方に強く捉われたようだった。
遠慮がちな声で、今日初めて出会った男に尋ねる。

「……預ける……とは」
「聖闘士になる修行をするために」
「その修行、期間はどれほどかかるのです」
「聖闘士になるまで。あるいは、聖闘士になれないことがわかるまで」
「……」
あの『信じられないような力』が一朝一夕で身につくはずがない。
となれば、聖闘士になるための修行に要する時間は、どう考えても年単位ということになる。
男の返答を聞いた氷河の母は、つらそうに その眉根を寄せた。

氷河はといえば、母の表情が曇った理由に気付いた様子もなく、見知らぬ男に大きく頷き返したのである。
「マーマを守れるくらい強くなれるのなら、俺、なってやってもいいぜ。聖闘士ってのに」
「マーマだけでなく、すべての人を守るのだ」
「マーマだけでいい」
「そんな考えでいる者は聖闘士にはなれない。聖闘士とは、特定の個人ではなく世界そのものを守るために戦う者のことを言うのだ」
「……」

氷河が守りたいのは母だけだった。
男の言葉を聞いて、氷河は急速に『聖闘士』なるものへの興味を失ってしまったのである。
「俺が守りたいのはマーマだけだし、俺がなりたいのはマーマを守れるくらい強い男だ。世界なんて、そんな詰まんないもんを守る気もないし、そんな大層なものにもなりたくない。俺、高望みはしないタチなんだ。遠くの山ばっかり見てると、足元の雪に足をとられるから」

悲しいほど現実的で夢のないことを言う息子に、その母が瞳を曇らせたことに、当の息子は気付かなかった。
氷河はむしろ、そんなふうに大人の分別でできた言葉を、大人に向かって口にできる自分を得意がってさえいたのである。
“大人の”男は、だが、そんな氷河を褒めるどころか、それでなくても厳しい印象の強い眼差しを、ますます険しいものにした。

「高望みではない。それは君の義務だ。君は、そういう星のもとに生まれたのだ」
「強くはなりたいけど」
「なら、聖域に来たまえ」
「マーマも一緒?」
「それは駄目だ。聖域には、アテナと世界の平和のために戦う者以外、足を踏み入れることは許されていない。その場所も、外界の者たちには知らせてはならないことになっている。君も、一度聖域に入ったら、聖闘士になるまでは出ることはできない」

「なら、行かない」
守りたい人がいるから、氷河は力を欲していたのである。
守りたい人のそばにいられないのでは、力を得ても何の役にも立たないではないか。
氷河には、それは考えるまでもない結論だった。
「マーマがいるから、俺は我慢して、こんな世界で生きてやっているんだ。マーマと一緒にいられないなら、俺が生きてる意味もない。――こんな世界」
というのが。

「それが、君の生きる目的なのかね」
10歳の子供が語る生の意味と目的を、見知らぬ男は笑い飛ばしたりはしなかった。
むしろ、痛ましげに、無理に世の中を知った振りをしている子供を――氷河は、決して“振り”をしているつもりはなかったのだが――見詰めてきたのである。






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