氷河の言葉に慌て青ざめたのは、氷河の母の方だった。 まだ たった10歳の子を手離すことなど、もちろん彼女は考えてもいなかった。 氷河のその言葉の聞くまでは。 いくら聖闘士という 神に選ばれた存在になるためと言われても――氷河はまだ母の庇護が必要な歳ではないか。 だが、彼女の息子の語る彼の生の目的は、氷河の母にはあまりにも衝撃的なものだったのである。 そんなことのためだけに生きていたら、母の命がこの世界から消えてしまった時、この子はどうなってしまうのか。 母の心は揺れない訳にはいかなかった。 「氷河、あなたは、マーマの子である限り“マーマの子”以外の何者にもなれない。誰かの友人にも、誰かの仲間にも、誰かの家族や恋人にもなれない――何にもなれない。でも、聖闘士になれば、氷河は誰からも敬われ、羨まわれる存在になれるのよ」 「俺は、何があってもマーマの子でいたい。他の何かになんてなりたくないし、マーマ以外の奴等なんてどうでもいい。みんな死んだって、俺は困らない」 氷河が『かえって せいせいする』とまで言わなかったのは、そんなことを言えば、母が悲しい目をするということを、彼が知っていたからだった。 母以外のすべての人間が『死んでも困らない』のは ただの事実だが、『せいせいする』は、氷河の心のあり様を表した言葉である。 氷河に優しくしてくれるのは母だけだというのに――母が、彼女の息子に“誰に対しても優しい子”であってほしいと願っていることを、氷河は承知していた。 だが、氷河が口にしなかった言葉は、氷河の母には聞こえていた。 聞こえたからこそ、彼女は決意したのである。 「あなたが本当に聖域の方だという証は」 言葉だけではない証を求める氷河の母の言葉に、男は気を悪くした様子は見せなかった。 「聖域の者だという証か。そうだな」 言いながら、男が右の腕を宙に伸ばす。 その手の先の空気がまるで陽炎が揺らぐように不思議に歪み、彼はそこから緑の葉のついた木の枝を1本取り出した。 「これは、聖域の内にある庭に立つオリーブの木の枝だ。この辺りはまだ雪に閉ざされているが、聖域はここよりずっと南方にある」 真冬に燃え立つ緑。 聖域の財宝などを出されるより、それは信じるに足る証だった。 そもそも、その緑をこの場に出現させられる力が常人のものではない。 神の加護なくして成し得る仕業ではないだろう。 男の差し出したものを見て、氷河の母はゆっくりと深く頷き、そして男に告げた。 「氷河を聖域に預けます。この子を母がいなくても生きていける強い子にしてください」 母の言葉に驚いたのは氷河である。 自分が望んだのならともかく、嫌だと言っているのに、母が自分を手離すことがあるなどと、氷河は考えてもいなかったのだ。 「マーマ! そんなことしたら、誰が村の雑貨屋からマーマの薬を取ってくるんだ。マーマの作ったプラトークを店に納めに行くのだって、誰がするんだよ! マーマは、人前に姿を見せるのを あんなに嫌がってたじゃないか!」 「氷河もそうだったでしょう? でも、マーマのために我慢して村に行って、村の人たちの好奇の目にさらされることに耐えていた。マーマは、これまで氷河に甘えすぎていたの。子供なら、人の悪意に気付かないと――傷付かないと思っていた……」 だが、それは間違いだった。 子供は、子供だからこそ より敏感に、人の悪意を感じ取り、自分の心を守る術を持たないがゆえに、深くまっすぐに傷付く。 自分を蔑む者たちを蔑み返すことで自身の誇りを保とうとするほどに、氷河は傷付いていたのだ。 我が子の素直な心を守ることができなくて、何が母親だろう。 氷河の母は自分こそが子供だったのだと、これまでの自分を悔いていた。 氷河の母を名乗るのなら、自分こそが大人にならなければならない――と。 「氷河が聖域に行ったら、今度は私が自分で村の中に入っていくわ。氷河がいなくて寂しくても我慢するわ。氷河が私の子でないものになるために頑張っている間、私は堂々と氷河のマーマと名乗れる自分になるために努力するわ」 「俺はマーマの側にいたいんだ」 「聖域に行きなさい」 「嫌だ」 「これは、氷河のためなの」 「俺は、マーマのために、マーマの側にいる」 「マーマのためというのなら、聖闘士になって強く優しい人になってちょうだい。そうすれば、マーマは氷河を誇りに思うことができて、嬉しいのよ」 「マーマは俺を誇りに思いたいのか。誇れるような俺じゃないと、マーマは俺がいらないのか。マーマは、そういう俺じゃないと好きじゃないのか」 「氷河……」 そんなことがあるはずがないではないか。 今でも十分に、氷河は氷河の母にとって “誰にでも誇れるほど優しく強い子”だった。 だが、母親が我が子に望むことは――何にも増して強く望むことは、『あなたに幸福になってほしい』という、その一事に尽きるのだ。 「氷河は今のままでいてはいけないの。ごめんなさい。私は氷河に、生きることは素晴らしいことだと一度も教えてあげたことがなかった」 「マーマがいるなら、素晴らしくなんかなくても俺は生きていけるって、言ってるだろ!」 息子の訴えに、氷河の母は首を横に振った。 それは“幸福”ではない。 それは“諦め”という、幸福から最も遠いところにある思惟だった。 「今のままでは、マーマは氷河にろくに食べさせてもあげられない。聖域に行けば、少なくともひもじい思いはせずに済むでしょう」 「俺は、マーマといられるなら飢えてもいい。腹いっぱい食えたって、マーマと一緒にいられないんじゃ、ちっとも嬉しくない」 「氷河……」 衣食住に不足がなければ、人はそれで幸福になれるというものではない。 それは氷河の母にもわかっていた。 だが、まだ10歳になったばかりの子供に『飢えてもいい』と言われることは、そんなことを言わせるような生活しか子供に与えてやれないことは、子を守るべき母親としてあまりにつらいことだった。 その上、この子供は親の心配までしてしまうのだ。 「だいいち、俺が飢えなくなっても、マーマはどうなるんだ」 「君が聖域に来てくれれば、君のマーマはその分、暮らしが楽になるんだよ」 それまで母子のやりとりを黙って聞いていた男が、初めて口を挟んでくる。 理屈でも感情でも、この母子は 子の方が強く激しすぎる。 彼の口出しは、子の方が母より強いことを懸念してのことだった。 「聖域からも助力を惜しまない。聖域は、君のマーマに必要な薬や、君のマーマ――いや、君が望むだけの金品を提供しよう。君のマーマは、神に選ばれた子の母なのだと、この村この国の者たちに喧伝してやってもいい。それだけで、君のマーマは、この国の誰からも一目置かれる存在になるだろう。そうなれば、もう誰も君のマーマを貶めることはできない」 「……」 それは社会的には どんな力をも持たない非力な子供には 決して成し得ないこと――氷河には決して母に与えることのできないものだった。 それを、この男は母に与えてくれるという――。 「俺が聖域に行けば、マーマは誰からも陰口を言われずに済むようになるのか」 「ああ」 「マーマは綺麗で優しいって、みんなが認めてくれるようになるのか」 「事実、そうだからね」 自分が母のためにできる唯一のことが、母の側を離れることだとは。 氷河は、目の奥が熱くなってきた。 側にいて、この不幸で美しい人を支えることが、この人のためになるのだと信じて生きてきた これまでのすべての時間。 それらは実は全く意味のないものだったのだと言われたも同然のことだったのだ。今、氷河の前に突きつけられた現実は。 貧しく非力な子供には到底母に与えようのないもの。 それは非力な子供の愛よりも、強い力を有するものなのである。 自分の無力が悔しくて悲しくて、泣きたい。 だが、不幸な母に、より多くの物を与えられる者は、背伸びをして大人の振りをしている子供ではなく、本当の力を持っている大人の方なのだ。 泣きたい――大声をあげて、氷河は泣きたかった。 だが、泣けば母を困らせることになる。 今の氷河が母のためにできることは、焼けるように熱い喉の奥から、 「聖域に行く……」 という言葉を絞り出すことだけだった。 |