オリーブの木が立ち並んだ乾燥した土地。
その木の緑の葉の向こうに、『聖域』と呼ばれる場所があった。
氷河は、その暖かい場所に、家を出て僅か半日で着いてしまったのである。

氷河が母と暮らしていた北の国の村と聖域の間に横たわる距離が、真実 歩いて半日ほどのものだとは、氷河には到底思うことができなかった。
聖域から来たという男と歩いている間、氷河は幾度も奇妙に空間がねじれているような道に導かれていた。
男は、北の村の小さな家の中にオリーブの枝を出現させた時のように不思議な技を用いて、みじめな子供を聖域に運んで・・・きたに違いない。
もしかしたら聖域自体が、普通の人間たちが生きている世界とは違う世界にあるのかもしれないと、氷河は思った。

「ここから先が聖域だ」
乾いた土が露出していた道が、ある地点から石の敷かれたそれに変わっている。
その境界に立って、男は重々しい口調で氷河に告げた。
「聖域はアテナの結界に守られている。が、今はアテナは聖域に降臨していない。今の聖域を守っているのは、前代のアテナの遺志なんだ」

男が『聖域』と読んだ場所。
そこには、氷河がこれまでに見たこともないような巨大な大理石の建物が幾つも 重なるように林立していた。
人気はほとんどなく、氷河は、自分は死の国に連れてこられたのではないかと思ったのである。
眩しい光に満ちてはいるが、本当はここは死の世界、自分をここに連れてきた男は本当は死神だったのではないかと。
そこが死の国ではないと氷河が信じられるようになったのは、氷河が聖域に足を踏み入れて さほど進まないうちに、氷河と大して変わらない年頃の小さな子供が大理石の柱の陰から飛び出してきた時だった。

「その子が、僕と同じ聖闘士候補の子なの?」
新緑の上を撥ねる春の陽光のように弾んだ声。
飾り気のない膝上丈の白いチュニックからは細く白い腕がのび、やはり細く すらりとした素足には編み上げのサンダル。
その瞳は驚くほど明るく輝いている。
それは、花のように可愛らしい少女だった。
氷河のいた村にも女の子は幾人かいたし、夏場に遠出する大きな町には、華やかなサラファンを身にまとった少女たちがあふれていた。
だが、これほど綺麗な造作をした少女を見るのは、氷河はこれが初めてだった。

もちろん氷河は、この世界で最も美しい人間は自分の母だと信じていたし、それはたった今も変わらない。
が、その母も、この少女ほど眩しく輝いてはいなかった。
それだけは氷河も認めざるを得なかったのである。
まだ小さな子供――おそらく、7、8歳の子供だというのに――だからこそ?――彼女は その身に光そのものをまとっているように生き生きと輝いていた。

しかし、その事実が――新参者を見詰める少女の瞳が嬉しそうに輝いていることが――大いに氷河の気に障ったのである。
自分はこれほど悲しい思いでいるというのに、なぜこの少女はこんなにも幸福そうな様子をしているのだ、と。

「瞬、お仲間だ。仲良くな。名は氷河」
氷河を聖域に連れてきた男がそう言うと、瞬はそれでなくても明るく輝いていた瞳を、更に明るくして、氷河の前に駆け寄ってきた。
氷河より頭ひとつ小さいほどの背丈、この世界が悲しみと不幸ばかりでできていることを まだ知らない赤ん坊のように素直な光をたたえた瞳。
その瞳の持ち主が氷河の瞳を見上げ、
「僕、瞬。男の子だよ。よろしくね、氷河」
そう言って、氷河に手を差しのべてきた。

「男?」
聖域は、女神アテナが庇護する神聖な場所。
その神聖な場所で、氷河が最初に発した言葉がそれだった。
そう言われることには慣れているのか、気を悪くしたふうもなく、瞬はにっこり笑って、氷河に頷いてみせた。
瞬の眩しさが癇に障って――男子を女子と見間違えた気まずさのせいもあって――氷河は、自分の前に差し出された手を無視し、ぷいと横を向いてしまったのである。

「あ……」
瞬の落胆した溜め息のような声が、氷河の耳に届けられる。
氷河は、少しばかり良心の呵責を覚えてしまったのである。
だが、氷河は、こんなふうに善意だけでできた眼差しを人から向けられること自体が初めての経験で――だから、彼には、瞬の所作と表情に どう反応すればいいのかが わからなかったのだ。
瞬の瞳の中にある善意と親しみを、そのまま信じ受け入れていいのかどうかさえ、氷河にはわからなかった。

「僕……嫌われちゃったのかな……」
視線を逸らすだけでは きまりが悪く、その身体の向きまで反転させた氷河の後ろで、瞬が不安そうに呟く。
「氷河はこれまで母ひとり子ひとりで、お母さんと肩を寄せ合うようにして暮らしていたんだ。その お母さんと離れてここに来たから、お母さんのことが心配で、まだ瞬と仲良くする気になれずにいるんだよ。察してあげなさい」

「お母さんと……」
氷河を聖域に連れてきた男は、気落ちしている瞬に、嘘とも真実とも言えないようなことを言って、氷河の無愛想を弁護(?)してくれた。
母と引き裂かれた子供の気持ちを察したのか、瞬がそれきり黙り込む。

母と引き裂かれた かわいそうな子供の振りをしていれば、自分は、この 癇に障るほど明るい瞳の持ち主の“お仲間”にならずに済むのかもしれない。
――と、氷河は考えたのである。
そんな意地を張るのは もったいないと、どこからともなく、氷河自身の声が聞こえてきた。






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