「僕、1年前に聖域に来たの。いつかきっと仲間がくるからって言われて、ずっと氷河に会えるのを楽しみにしてたんだ。あの……今すぐじゃなくてもいいから、いつかお友だちになってくれる?」
母と引き裂かれた子供の悲しみを 瞬が察してくれていたのは、二人が聖域で出会った最初の1日だけだった。
気温は暖かいのに、なぜか冷たさを感じる石の建物の中で 聖域での最初の夜を過ごした翌日、瞬は昨日のことなどすっかり忘れてしまったかのように明るい調子で、氷河にそう言ってきたのである。

“母と引き裂かれたかわいそうな子供”にされてしまっていた氷河としては、ここで 明るく気軽に瞬に頷き返すわけにはいかなかった。
否、むしろ、本当に 母と引き裂かれたかわいそうな子供だったからこそ、氷河は瞬に頷き返すことができなかったのである。

昨夜、ほとんど眠ることができず、こらえようとしても止まらなかった涙のせいで、氷河の目は真っ赤になっていた。
こんな顔を、自分より年下の子供に見られることは我慢ならない。
だから、氷河は、
「こんなとこ、好きで来たんじゃない」
と短く突き放すように言って、出会いの時と同じように、ぷいと横を向いたのだった。

「あ……」
瞬が、これまでたった一人で、仲間がやってくるのを心待ちにしていた――というのは、どうやら事実らしかった。
氷河がびっくりするほど――瞬は、氷河の素っ気ない言葉に、すっかりしおれてしまったのである。
人が人に何かを期待すること自体が間違っているのだと胸中で毒づいて、氷河は自分の素っ気ない言動を正当化しようとしたのだが、しょんぼりと肩を落としてしまった瞬の様子を見ていると、どうしても自分の中の気まずさと罪悪感が消えてくれない。
自分自身への苛立ちと瞬の悲しげな様子に負けて、結局氷河は瞬を怒鳴りつけてやることになってしまったのだった。

「そんなことはどうでもいいから! 早く聖闘士になるための修行とやらを始めろよ! 俺はそのためにここに連れてこられたんだろ!」
「え……あ、うん!」
氷河に話しかけてもらった(?)ことが、瞬はよほど嬉しかったらしい。
ぱっと瞳を輝かせると、瞬は気負い込むようにして言葉を紡ぎ始めた。

「でも……氷河は、そんなに修行がしたいの? 楽しみにしてるの? 僕、全然好きじゃないんだけど」
「……」
そんなことを不思議そうに尋ねられても、氷河としては返答に困るのである。
氷河は、そもそも、“聖闘士になるための修行”というものがどういうものなのか、簡単な説明ひとつ受けていなかったのだ。

「聖闘士になるための修行って、いったい何をするんだ?」
「え……と、駆けっこしたり、自分の背丈より大きな岩を砕いたり、ものすごい崖をよじ登ったり、ものすごく高いところから飛び降りたり、色々。聖闘士になるには、まず体力をつけなきゃならないんだって。でも、僕はまだ子供で身体ができてないから、反射神経とかを養う特訓とかをさせられることの方が多いかな。それがひどいんだよ! 矢を一度に何本も射掛けられてね、それを全部よけなきゃならないの。やじりは潰されてるから突き刺さったりはしないんだけど、当たるとすごく痛いの」
「自分の背丈よりでかい岩を砕く……?」

『飛んでくる矢をよける』くらいなら自分にもできそうな気はするが、『自分の背丈より大きな岩を砕く』は、さすがに100年修行を積んでもできるようになる気がしない。
いったい自分は何をさせられるのかと戦々恐々しながら、氷河はその修行とやらに臨んだのだが、実際に始まってみると、それは氷河には大した難行ではなかった。
北の国では、罠の作り方を知らない氷河は、年がら年中 山野でウサギやキツネを追い、掴まえ、時には冬眠から目覚めてしまったクマに襲われかけて 命からがら逃げおおせたこともあったのだ。

氷河を聖域に連れてきた例の男に、立ち上がったクマより大きな花崗岩を砕いてみろと言われた時には『馬鹿か!』と怒鳴って逃げを決め込んだが、男は氷河に何も言わなかった。
それは、聖闘士になって“小宇宙”というものを自在に操れるようになって初めてできることらしい。
そして、氷河は、それ以外の修行のプログラムは ほぼすべて、苦もなく やり遂げることができたのだった。

むしろ問題は、氷河より1年先輩であるはずの瞬の方だった。
『(修行は)全然好きじゃない』と言うだけあって、瞬は、本当に、それらの修行を何ひとつ まともにこなすことができなかったのである。
足は早く、敏捷でもあるのだが、少し痛い思いをすると、瞬はすぐに泣き出してしまうのだ。

氷河がここにやってくるまで、彼が何と言って瞬を叱咤していたのかは知らないが、氷河が聖域に来てからは、
「そんなに泣いてばかりいると、氷河に嫌われてしまうぞ」
が、例の男の口癖になってしまっていた。
男にそう言われると、瞬は、その小さな手で涙を拭きながら立ち上がるのだ。

そんな瞬を見るたびに、男は機嫌のよさそうな笑顔を その顔に浮かべる。
どんな苦行をやり遂げても氷河を褒めてくれない彼が氷河を褒めてくれるのは、そういう時だけだった。
「今までは何を言われても泣き続けていたのに――君が来てくれたおかげで、瞬は強くなった」
というのを褒め言葉といっていいのなら――であるが。

「俺が強くならなきゃ意味がないだろ」
少しも褒められた気のしない氷河が そう言って毒づくと、例の男は、
「それは違う」
と、氷河の意見を否定した。
「聖闘士というものは――人間も同じだが、自分以外の人間を強くできる者、自分以外の人間に希望を与えることのできる者こそが、真に強い者なんだ。君ひとりが強くなって、それで君に何ができるというんだ? 一人の人間にできることは非常に限られている。瞬はこれまで聖域では一人きりの子供だったから、君が来てくれて嬉しいんだよ。君がいてくれるだけで、瞬は励まされている。君がいるだけで、瞬は強くなれる。人と人の関係というものはそういうものだ。生きて、そこにいてくれることが嬉しい――」

「……」
瞬が泣かなくなることで自分が聖闘士になれるというのなら、いくらでも――もとい、必要な分だけなら――瞬を励ましてやってもいい。と、思わないわけでもない。
だが、そうではないだろう。
瞬が泣かなくなっても、氷河が聖闘士になれるわけではない。
氷河は、できれば、瞬のような泣き虫には極力関わりたくなかったのである。
涙を拭いながら立ち上がり、恥ずかしそうな笑顔を向けてくる瞬を、『可愛い』と思うのは事実だったのだが。

「今、聖域にはアテナがいない。黄金聖闘士も、君の母上が助けられたと言っていた水瓶座の黄金聖闘士と私だけ、他に白銀聖闘士が3人いるきりだ。そして、君と瞬が青銅聖闘士候補。私は、聖域に来て10年になるが、未だに君たちの他に聖闘士になる可能性を持つ者に出会ったことがない。だから、君と瞬は互いに支え合って――」
「あんた、聖闘士だったのか!」
素頓狂な声で話の腰を折られた男が、一瞬 むっとした顔になる。
それから、彼は、両の肩から力を抜き、嘆息混じりに尋ねてきた。
「……何だと思っていたんだ」
「人さらい」
「――あながち間違いとも言えないな」
意外に素直に氷河の見解の妥当性を認めて、彼は礼儀を知らない子供を見おろした。

「ともかく、瞬は本当に君が来てくれるのを楽しみにしていたんだ。君が今より ほんの少し瞬に優しくしてやれば、瞬は格段に強くなれるかもしれない。だから――」
「……だから?」
だから、どうだというのだ。
瞬が強くなれば、北の国にいる不幸な女性が心からの笑顔を作ることができるようになるとでも、この男は言うのだろうか。

「俺は、瞬のために、マーマから引き離されて、こんなところに さらわれてきたのか?」
反抗的な口調で氷河が皮肉を言うと、男は氷河の姿を映していた目を僅かにすがめ、そして、それ以上 何も言わなかった。


瞬に“優しく”することを断固として拒んだのは、氷河の失策だったらしい。
男は、その日、教皇の間の一室に寝台を二つ運び入れ、氷河と瞬に今夜から同じ部屋で眠るようにと言ってきたのである。
「二人が仲良くなれるように」
と益のないことを言って、彼は、瞬と氷河に――というより、氷河ひとりに――断固とした態度で、そうすることを命じた。

寝台はご丁寧に ぴたりと隙間なく並べられている。
瞬は嬉しそうだったが、まるで いたずらをした子供への嫌がらせのような男のやり口に、氷河は心底からげんなりした。






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