瞬が聖闘士になれるのなら、聖闘士というものは誰にでもなれる代物なのではないかと思うほど、瞬は泣き虫な子供だった。 すぐ泣くくせに、氷河の視線に気付くと、無理に笑おうとする。 瞬が素直で綺麗で可愛らしい子供だというのは否定できない事実で、善意と好意だけでできている瞬の眼差しを冷たく無視し続けるのは、氷河にも なかなかの難事業ではあった。 氷河には母しかいなかったように、瞬には氷河しかいないのではないかと、氷河自身が思わずにいられないほど、いくら冷たく突き放しても瞬は氷河のあとを追ってきた。 いったいなぜここまで――と、瞬の心を疑った氷河は、その時 初めて、瞬の身の上に考えを及ばせることをしたのである。 瞬は肉親と引き離されても平気なのか。 瞬の家族は聖域からの援助や名誉欲しさに瞬を簡単に手離し、その事実を知っている瞬は、だから瞬は肉親のことを おくびにも出さないのか――。 そういった事柄が気になりはしたのだが、今更 瞬に尋ねるのもためらわれる。 結局 氷河は、それからおよそ半年間、瞬とは必要なこと以外ろくに口をきかないまま、微妙な距離を保った状態で修行の日々を過ごすことになったのだった。 瞬と同じ部屋で眠るようになってから、氷河は一人で泣くことのできる場所を失った。 昼間は、馬鹿げた修行のおかげで気を紛らせることができたが、夜はそうはいかない。 だが、すぐ隣りに瞬がいると、隠れて泣くことも、あれこれと恨み言を呟くこともできない。 二人の聖闘士候補が同じ部屋で寝起きするように仕組んだのは、あの男の嫌がらせだったに違いないという確信に至った氷河は、そうして やがて、一人で泣くことを諦めたのである。 そんなある夜。 氷河は夢を見た。 夢の中の氷河は、それが夢だということに気付いてはいなかった。 それもそのはず、その夢の中の氷河は、まだ自分の足で歩くこともできない赤ん坊だったのである。 以前、沈みかけた船から黄金聖闘士によって救われたことがあるという母の話を聞いたことがあったから、氷河はそんな夢を見ることになったのかもしれなかった。 母に抱かれたまま、氷河は水の中に放り出された。 水は冷たくはなかったが、息ができず苦しかった。 声を出して叫びたいのだが、そうすることもできない。 水は、氷河の母から氷河を引き離し、一人きりになった氷河を水底に引き込もうとした。 手足を丸めていることしかできない赤ん坊だった氷河は、水の中で、いつのまにか10歳の子供の姿に戻っていた。 だから、氷河は手をのばしたのである。 母がいないのなら生きていても意味はないと思っていた この世界。 だが、夢の中の氷河は今は死にたくなかった。 生きていたかった。 生きていたい! その叫びが声になっていたのかどうか。 ともかく、氷河がそう叫んだ時、氷河がのばした手を掴んでくれる手があったのである。 小さな手だった。 どこかで見たことがあるような、母の手ではない小さな手。 「マーマ!」 叫んで、氷河は目が覚めた。 氷河が目を開けると、そこには瞬がいた。 氷河を悪夢の中から引きあげてくれたのは、瞬の手だったらしい。 ――と、氷河は思ったのだが、彼はすぐにそうではないことに気付いた。 氷河の手は、瞬の小さな手を握りしめている。 そこから察するに、どうやら瞬の手を掴んで放そうとしなかったのは氷河の方――だったらしい。 悪夢にうなされている氷河を心配して、その横にやってきたら、突然手を掴まれて、瞬は自分の眠りに戻れなくなってしまった――というのが、実際のところだったのだろう。 瞬は、自分の手を掴んで放さない仲間の手を振りほどくことができなかっただけで。 その事実に気付くと、氷河はすぐに、瞬の手を自分の元に引き留めていた手をぱっと放した。 そうしても、瞬は氷河の側を離れようとはしなかったが。 石の部屋の中に射し込む月の光が、不安と懸念の色をたたえた瞬の瞳を 宝石のようにきらめかせている。 瞬は、その瞳に氷河の姿を映しながら、瞬にしては感情の読み取れない静かな声で氷河に尋ねてきた。 「お母さんの夢を見てたの? お母さんのところに帰りたいの?」 自分より小さくて弱い瞬が母を慕って泣いていないのに、瞬より年かさで強い自分が母を恋しがっているわけにはいかない。 氷河は咄嗟に、母の身を案じているのは自分の方なのだというふうに体裁を繕うことをした。 「マーマはきっと、俺がいなくて寂しがってる。泣いてるかもしれない」 氷河の虚勢は、だが、すぐに化けの皮がはがれてしまった。 「泣いているのは氷河の方だよ」 「うるさいっ!」 醜態をごまかすために、瞬を頭から怒鳴りつける。 怒鳴りつけてから、氷河は、自分の頬が濡れていないことに気付いたのである。 では、何をもって瞬は『泣いているのは氷河の方だ』と判じたのか――。 氷河は一瞬 奇妙な戸惑いに襲われたのだが、今は己れの威信を保つことの方が優先事項。 氷河は全身を怒りの空気で覆いつつ、瞬に背を向けて固く目を閉じた。 瞬はしばらく心配そうに そんな仲間を見詰めていたようだったが、やがて もそもそと自分の寝台に戻り、そして再びその瞼を閉じたらしい。 瞬が完全に寝入ったと確信できるようになるまで、氷河は全身の神経を張り詰めさせ、息を殺していたのである。 瞬の小さな寝息を確認して初めて、氷河はその緊張を解いた。 そして、明朝起きた時に、瞬がこの出来事を忘れていてくれることを心から願ったのだった。 翌朝、瞬がもし昨夜の出来事を忘れていたとしても、だが、それは氷河の救いにはならなかったろう。 瞬の記憶の有無を確かめることで瞬の記憶を蘇らせることを避けるため、実際に瞬が昨夜の出来事を憶えているのか忘れているのかを確認することは氷河にはできなかったのだが、その夜から氷河は毎晩同じ夢を見続けることになってしまったのだ。 そして、そのたびに氷河は瞬の手に命を救われた。 そんなことが10回ほど繰り返されただろうか。 だからといって瞬は氷河に何も言おうとはしなかったが――眠りを中断されることへの文句ひとつ、瞬は口にしなかったが――氷河の方はきまりが悪くて仕方がなかったのである。 なにしろ眠っている間のことだけに、氷河には どうにも対処の仕様がない。 あの夢をどうにかして追い払うことはできないかと、氷河が悩みを募らせていた ある日、氷河は、瞬があの男に奇妙な願い事をしている場面に遭遇した。 |