まだ聖闘士になっていない氷河たちには立ち入りが禁止されているアテナ神殿のファサードの前。 そこで瞬は、神妙な顔をして、あの男に嘆願していたのだ。 「氷河をお母さんのところに帰してあげて。聖闘士になるための修行って、もっと大人になってから始めてもいいんでしょう?」 ――と。 瞬の願いを聞いた男が 普段の彼からは想像もできないほど優しげな目をして(瞬には見えていなかっただろうが、氷河にはそれが見てとれた)、わざと怪訝そうな口振りを作って瞬に尋ねる。 「仲間ができたと、あんなに喜んでいたではないか。氷河の素っ気なさには、さすがの瞬も耐えきれなくなったか」 そうであったとしても少しも不思議なことではないのに、男の言葉に氷河の心臓はずきりと痛んだのである。 瞬がすぐに――だが、力なく――首を横に振る。 「それは、だって……。氷河も僕と同じで一人ぽっちなんだと思っていたんだもの。でも、氷河にはお母さんがいる。氷河はお母さんに会いたがってるの。氷河をお母さんのところに帰してあげて」 「……」 二人のやりとりを盗み聞いている間、氷河は、期待と高揚感と困惑と、そして理由のわからない失望が入り混じった気分に包まれていたのである。 母の許に帰れるかもしれない。 母に会えるようになるかもしれない。 それが許されるのか。 許されるはずがない。 万一許されることがあったとして、瞬はそれでもいいのか。 『氷河も僕と同じで一人ぽっちなんだと思っていたんだもの』――。 男の答えは、 「考えておく」 だった。 「僕、一人になっても頑張るから!」 と瞬は念を押していたが、彼の『考えておく』が『それはできない』であることは、氷河にはもうわかっていた。 自分でも不思議に思えるほど――氷河の胸中に落胆の思いは生まれてこなかった。 そんなことは最初から無理な話だと諦めていたせいもあったかもしれない。 だが、そんなことよりも――今の氷河には、『氷河も僕と同じで一人ぽっちなんだと思っていたんだもの』という瞬の言葉の方が気になったのである。 深々と男に頭を下げてから、瞬が、すぐ脇の柱の陰にいる氷河に気付いた様子もなく、教皇の間・十二宮へと続く石の階段を頼りない足取りでおりていく。 「で、氷河。おまえの用は何だ」 男はそこに氷河がいることを、最初から気付いていたらしい。 最初の踊り場を通り過ぎて瞬の姿が見えなくなると、彼は、それまで息を殺して盗み聞きにいそしんでいた子供の名を呼んだ。 そのまま隠れ続けているわけにもいかず、氷河は、きまりの悪い顔を男の前にさらすことになったのである。 「瞬にはマーマがいないのか」 氷河は本当は、瞬と自分の寝所を分けてくれと頼むつもりで、ここにやって来た。 が、氷河の中でそれは 既にどうでもいいことになってしまっていたのである。 「瞬は一人だ。君と違って、母親どころか父親もいない。誰もいない」 「誰もいないって、何だよ、それ……」 それはいったいどういうことなのか。 そんな子供が存在し得るのか。 肉親という名の庇護者のいない子供――氷河にはそれは想像を絶する存在だった。 だいいち、そんな子供がどうやって生きていられるというのだ。 瞬の泣き虫振りを罵倒する以外のことで、氷河が瞬に言及することは これまでほとんどなかったせいか――氷河を聖域に連れてきた男は、何か思うところのあるような眼差しを氷河に向けてきた。 そして言った。 「1年と半年ほど前、ここよりずっと南の方で、国同士の戦いがあって、私はその戦場跡で瞬を見付けたんだ。見付けたというより、瞬に呼ばれたという方が正しいかもしれない。私はこの聖域にいる時に尋常でなく強い力を感じて、その力が生まれている場所に行ってみた。そうしたら、そこに瞬が一人きりで座り込んでいたんだ。幾百という数の兵の死体と武器の散乱する浜辺に」 「戦場……」 それはなんと瞬に似合わしくない場所だろう。 瞬は、仲間が自業自得で負った擦り傷にさえ すぐ涙ぐむ“子供”なのに――。 「瞬は君より小さいだろう? それまで一人で生きてこれたはずがないんだが、私がその場に行った時には、瞬は一人で、そして、それまでのすべての記憶をなくしていた。おそらく、瞬は誰かと一緒にあの場にいたんだ。親か兄弟か友人かはわからないが。おそらく、その者はあの戦場で戦いに巻き込まれて、ひどい死に方をしたんだろう。それで、瞬はショックで記憶を失った」 「……」 「聖域とあの戦場の間には、普通の人間が歩いていこうとしたら半月はかかるほどの距離があった。だが、瞬の力は、聖域にいた私のところにまで届いた。あの子はひどい泣き虫だがね。恐ろしく強い力を、あの小さな体のどこかに眠らせている。だが、あの子の中の何かが、その力を抑えつけているんだ」 「瞬は……強くなんかなりたくないんだ……」 「かもしれない」 「……」 では、この男は、そんな瞬の気持ちを知りながら、瞬をここに連れてきたのだ。 「一人だから――瞬は喜んでここに来たのか」 「そうだ。ここできっと仲間に会えると言ったら、瞬はとても喜んで――君の来るのを待っていた」 「俺がいなくなると、瞬はまた一人になるのか」 「まあ……歳の近い子はいなくなるな。瞬は、大人は子供の友だちにはなれないと思っているようで――君だけが友だちなのだと思っているようだ」 「友だち……俺が瞬の……」 だとしたら、氷河が母の許に帰ることは、瞬からただ一人の友だちを奪うことになる。 『そんなことをする権利が おまえにあるのか?』と、氷河は自分に問いかけた。 『あるわけがないだろう!』と、思いがけないほどの即答が、どこからともなく降ってくる。 だが、母に会いたいという気持ちを消し去ることも、氷河にはできなかった。 どうすればいいのかがわからずに顔をくしゃりと歪めた氷河を、男は珍しく、いつもの“子供”を見る目ではない目で見詰めてきた。 「君の母上は、君のために自分の寂しさと不安を我慢して、君を聖域に預けることをしてくれた。君の母上はね、聖域からのありとあらゆる援助を拒絶したんだ。金品はもちろん、彼女自身の名誉に関わることさえ。君が母親なしでも生きていけるほど強い人間になり、母なしでも幸福に生きていける人間になることが唯一の望みだと、彼女は言っていた。その望みを叶えるためになら、母親は子の側にいられない苦しさにも耐えるべきなのだと」 「え……」 「もちろん、彼女の息子は女神に選ばれたのだと吹聴しておいたから、彼女の村での暮らしは楽になったとは思うが――。彼女は、君のために、まず自分が強くなろうとしているようだったから、それも私の出しゃばりに過ぎなかったかもしれないな」 「……」 母の思いと瞬の心――に、氷河は思いを巡らせた。 もしかすると、それは、氷河が生まれて初めてする行為だったかもしれない。 「瞬も……瞬も、俺のために、寂しくなるのを我慢しようとしているのか」 「それがわかるほどには、君も大人になったわけだ」 「俺だけが俺のために――」 自分だけが自分だけのために生きている。 自分のことばかりを考えている。 今になって、氷河はやっと気付いた。 自分は、他でもない自分が生きるための口実として、母と自分たちの不遇を利用していただけだったということに。 本当は、いつだって生きていたかった。 心から死にたいと願ったことなど一度もない。 生きるためには憎悪の力が必要で、そのために自分たち母子は不幸でいなければならなかった。 事実、氷河は、『(自分が)母を守りたい』と望んだことはあっても、『母に幸福になってほしい』と望んだことは、これまで ただの一度もなかったのだ。 彼女の息子が聖闘士になれないまま母の許に帰ったら、彼女はがっかりするのだろうか。 彼女の息子が聖闘士になったなら、彼女は喜んでくれるのだろうか。 瞬の友だちが聖域を去ってしまったら、瞬は泣くのだろうか。 それとも、母を恋しがる子供がこの場に残る方が、瞬を悲しませることになるのだろうか? ――そのどちらでもあり、どちらでもないような気がする。 彼等は、彼等の息子や友だちが幸福になることだけを、祈り願っているのだ。 「……聖闘士って、どれくらいでなれるんだ?」 「人による。修行を始めた年齢にもよるな。2、3年で小宇宙を身につける者もいるし、10年20年かかる者もいる。永遠に聖闘士になれない者も、もちろんいる」 「修行をいっぱいすれば、早く聖闘士になれるのか」 「何とも言えない。聖闘士になるのに必要なのは、肉体的な要件の他に心の問題がある。アテナの聖闘士にふさわしい心――気概と人間性、心の強さと美しさが、聖闘士には何よりも必要なんだ。強大な力があっても、その力の使い方を間違えたら、とんでもないことになるからな。聖闘士にふさわしい力と心を身につけた時、聖衣がその人物を聖闘士として認める」 「心……」 「昨日までの君なら20年コースだったかもしれない。昨日までの君は、人の思い遣りを思い遣ることのできない子供だったから」 彼が『今のままの君なら』と言わなかったのは、たった今 氷河の上に起こった変化を、彼が気付いていたからだったろう。 「瞬に泣かれると、あとが厄介だから――俺はここで聖闘士になるための修行を続ける」 母に会いたいという思いを完全に断ち切ることはできない。 だが、氷河は、きっぱりと男に言った。 氷河の決意に、彼は微笑みながら頷いてくれたのである。 『ここに残る』という氷河の決断を聞いた瞬は、途端に ぽろぽろと涙をこぼし始め、結局 氷河は、かなりの“厄介”をしょいこむことになった。 だが、瞬の涙は、母の許に帰ることを断念した友だちのために流されたものだったので――瞬の友だちにはそれがわかったので――氷河はその“厄介”を厄介と思うことはなかったのである。 それからもしばらく氷河の悪夢は続いたのだが、瞬と寄り添いながら眠るようになると、やがて その夢は氷河の許を訪れなくなった。 “完全に”とは言えないまでも、以前に比べれば はるかに落ち着いた心で、氷河は聖闘士という大人になるための修行を積むことができるようになったのである。 もちろん、瞬と共に。 その修行と時間の果てにあるものが 瞬との別れだなどということは、大人になる決意をしたばかりの氷河には知りようもない未来だった。 |