海の王子様






瞬王子が憂い顔で浜辺をお散歩していたのは、瞬王子の国であるブロンズランドが、お隣りの国ゴールドランドと戦争をしていたからでした。
国王であるお兄様が軍の指揮をとるために その戦争に行っているのが心配だったのと、そして、大好きなお兄様と離れているのが寂しかったからです。
瞬王子のお父様とお母様は早くに亡くなって、瞬王子にはお兄様だけが唯一の肉親。
瞬王子のお兄様は亡き両親に代わって、瞬王子をそれはそれは深く慈しみ育ててくれました。
そのお兄様が戦場に行ったきり、もう半年もお城に戻ってこないのです。
瞬王子が憂い顔になるのは 当然のことだったでしょう。

なんでも聞くところによると、その戦争は宣戦布告直後からずっと膠着状態、両国の軍は国境の川を間において睨み合いを続け、実際の戦闘はまだ始まっていないとか。
だからこそ、一度戦いの火蓋が切られると、その戦いは いずれかの軍が――あるいは両軍が――全滅するまでは終わらない激しいものになるだろう――というのが、多くの軍事評論家たちの ほぼ共通した見解でした。
そんなことになったら、どちらの国が勝利しても、その戦いが生むものは深い悲しみと嘆きだけ。
「どうして、人は戦争なんかするんだろう。仲良くしていた方が絶対にいいのに」
瞬王子は、この戦争をやめさせる方策はないものかと、日々思い悩んでいたのです。

本当に、人間はどうして戦争なんていう 無駄で無意味で非生産的なことをするのでしょうね。
瞬王子は、瞬王子をお城にひとり残して戦場に赴こうとする お兄様に尋ねてみたのですが、お兄様の答えは、
「おまえのためだ」
というものでした。
そんなはずがないのに。
瞬王子は、戦争なんて これっぽっちも望んでいなかったのに。
瞬王子は、お兄様の考えがちっともわかりませんでした。
そして、敬愛するお兄様の心がわからないことが、瞬王子はとても悲しく、とても寂しかったのです。

人はなぜ戦争をしてしまうのか。
戦いという行為を経た上で生き残ろうとする心は、進化を義務づけられた人間という生き物に備わった本能なのか。
戦いがなければ、人間という種に未来は与えられないのか――。
いつものように、人類の存亡に関わる重大な命題を考察しつつ、浜辺をそぞろ歩きしていた瞬王子は、その日 そこでとんでもないものを見付けてしまったのです。
それは、瞬王子に人類の存亡のかかった大問題を 一瞬で忘れさせてしまうほど、とんでもないものでした。
ええ、それは、本当にとんでもないものだったのです。

瞬王子が見付けた とんでもないものというのは、一人の人間でした。
その人間は、波打ち際に仰向けに倒れていました。
近付くにつれ、男性だということがわかりました。
それだけなら、瞬王子も、お付きの侍女たちもあまり驚きはしなかったでしょう。
どこかの漁師が泳ぎ疲れて日向ぼっこをしているのかもしれないとか(季節は冬でしたけれど、このあたりは真冬でも貝や海老を獲るために海に潜る漁師や海女がいたのです)、難破した漁船の船乗りが流れ着いたのかもしれないとか、そんなふうに思うことができましたから。

でも、そうではありませんでした。
そうではないことは一目瞭然でした。
なぜなら、波打ち際に仰向けに倒れていた人間は、それはもう見事なまでに裸だったのです。
漁師や海女が身につける綿の着物も、漁船に乗る船乗りたちの上着も着ていません。
彼は、その身体に、本当に布切れ一枚まとっていませんでした。

瞬王子とお付きの侍女たちは その事実に気付くと、一瞬ぎょっとして息を飲みました。
『バスルーム』のプレートが掛かっているお部屋の中にコタツが置いてあったら、誰だって驚きますよね。
あるはずのないものが あるはずのない場所にあったら、誰だってそういう反応を示すもの。
瞬王子と侍女たちは いったい何事かと怪しみながら、その裸の男の側に そろそろと近付いていったのです。

で、問題の人物ですが。
彼は、手をのばせば届くくらい近くで見ても、やっぱり全裸でした。
とても綺麗な顔立ちをした青年で、水を吸って色が沈んでいなかったなら太陽のように輝いて見えるのだろう金髪をしていました。
背も長く(なにしろ横たわっていたので、高くなかったのです)、体格も立派。
でも、素っ裸。

「ど……どうしたんですかっ! 大丈夫っ !? 」
なるべく彼の某所を見ないようにして、瞬王子は彼のすぐ脇に膝をつき、生きているのか死んでいるのかもわからない全裸の青年に声をかけたのです。
瞬王子の悲鳴が聞こえたのか、彼は一瞬その目を薄く開けてくれたのですが、その瞼はまたすぐに閉じられてしまいました。
きっと目を開けていることもできないほど、彼は疲れ切っているに違いありません。
それでも、ともかく彼が生きていることがわかって、瞬王子はほっと安心しました。

「でも、このままじゃ凍え死んでしまう。すぐにお城に運びましょう!」
「そんな無用心な! どこの誰なのかもわからないのに、危険ですよ、王子様! もし敵国のスパイだったりしたらどうするんですか!」
お付きの侍女たちは瞬王子の言葉に大いに慌てて、慎重に振舞うよう、瞬王子に注意を促しました。
なにしろ、瞬王子は お兄様の国王陛下に大変過保護に育てられたので、警戒心というものをあまり持ち合わせていなかったのです。
でも、だから賢明でないということではありませんよ。

「でも……スパイがこんな――その、こんな目立つ格好で敵国の海辺にいるわけないでしょう」
確かに、彼はスパイにしては目立ちすぎるほど目立つ様子をしていました。
派手な衣装を身につけていなくても、人は目立つことができるのです。
「それはそうですけど……」
まだ年若いとはいえ、さすがは一国の王子、実に的確な洞察力と判断力です。
侍女たちは、瞬王子の咄嗟の判断に大層感心しました。

もっとも、彼女たちの感心は、
「浜辺に裸で一人で倒れているなんて、彼は人魚姫に決まっています!」
という瞬王子の言葉で、すぐに どこかへ飛んでいってしまったのですけれども。
「でも、王子様。この方は、人魚姫にしては、随分と 立派なものをつけているようですよ?」
侍女の一人が、なぜかとても嬉しそうな様子で瞬王子にご注進。

「な……何のこと」
瞬王子は、もちろん、そんなところは見ていませんでしたよ。
そんなところをじろじろ見るなんて、とても失礼なことですからね。
瞬王子は礼節をわきまえた、とても礼儀正しい王子様でした。
でも。
瞬王子が礼儀正しい王子様でも、そのお付きの侍女たちもそうだとは限りません。
なんだか人魚姫の身に危険が迫っているような気がした瞬王子は、急いで自分の身に着けていたマントを外して、彼の身体を覆い隠しました。
途端に、侍女たちがとても残念そうに その口をとがらせます。
瞬王子の侍女たちは、礼儀はわきまえていませんでしたが、正直の美徳は その身に備えていたのです。

「何のことと言われても困りますけど、彼がお姫様でないことだけは、私たちが保証いたしますわ」
「なら、人間のお姫様に恋をした人魚の王子様に決まってます。普通の人が真冬の浜辺に洋服も着ないで寝転がっているわけがないもの」
この見るからに怪しい男が『普通の人』でないことは、お付きの侍女たちにもわかっていました。
でも、だからといって、彼女たちは瞬王子の判断をそのまま受け入れるわけにはいかなかったのです。

「でも、王子様。我が国には、人魚の王子様に恋されるような お姫様なんていませんわよ?」
「……」
すんでのところで、瞬王子は『それを忘れてた』と正直に言ってしまいそうになったのです。
口をついて出そうになった その言葉を 慌てて喉の奥に押しやって、瞬王子は改めて首をかしげました。

「でも、だったら……」
だったらなぜ、この人魚姫は――もとい、人魚の王子様は――、平和で静かな(はずの)海の世界を捨てて、戦争の続いている不穏な陸の世界にやってきたのでしょう?
恋をしたというのでもない限り、平和な世界より戦乱の世界を選ぶ人魚の気持ちは説明のしようがありません。
瞬王子は そう思いました。
それが良い方向にであれ悪い方向にであれ、人を動かすものは――つまり、世界を動かすものは――何よりも 人を愛する心だと、瞬王子は信じていたのです。

けれど、ブロンズランドに人魚の王子様が恋に落ちるようなお姫様がいないのは、誰にも否定しようのない確かな事実。
では、いったいなぜ この人魚の王子様は平和な海の世界を捨てて 争いの絶えない陸の世界にやってきたのか――。
瞬王子が再び悩み始めたところに、侍女の一人が新しい仮説を提出してきました。
それは、
「瞬王子様がとても お可愛らしい様子をされているので、彼は瞬王子様をお姫様と勘違いされたのでは?」
というものでした。

それは、普段から やおいの世界に慣れ親しんでいる者には非常に一般的かつ常識的な、はっきり言って“ありがち”すぎる仮説だったでしょう。
けれど、そんな常識の存在する世界を見たことも聞いたこともなかった瞬王子には 彼女の仮説が大変斬新なものに思えたのです。
斬新すぎて、瞬王子には、彼女の仮説を信じることができませんでした。

「まさか、そんなことがあるはずないでしょう。僕は、そんなふうに見間違われることのないように、いつだってちゃんと――」
その言葉の先を、瞬王子は、人魚の王子様の身体を隠しているマントを指し示すことで代用しました。

全裸の人魚の王子様の身体を覆っているものは、いわゆる王子様マント。
王様マントのように床に届くほど丈の長いものではありませんでしたが、メルヘンの世界では、そのマントを身につけていることは何よりも明白かつ確実な王子様の証です。
女の子に間違われることの多い瞬王子は、いつもこのマントを着用していたのです。
瞬王子がこのマントを外すのは、眠る時とお風呂に入る時だけでした。
ですから、その侍女が言うような見間違いは決してあり得ないことだったのです。
瞬王子は、そう信じていました。

「そうは言っても……ねえ?」
侍女たちは瞬王子の主張に異議があるらしく、互いに顔を見合わせて、何やら意味ありげに目配せをし合いました。
その目配せの意味するところを言葉にして 瞬王子の繊細な心を傷付けるわけにはいきませんから、彼女たちはそれ以上は何も言いませんでしたけれど。

ともあれ、人魚の王子様をこのままにしておいたら、彼が風邪をひいてしまいます。
瞬王子のお城は浜の入り江にあって、すぐそこ。
瞬王子は、ひとまず彼をお城に運び入れることにしました。
「誰か人を呼んできましょうか?」
「僕ひとりで大丈夫だよ」
そう言って人魚の王子様を抱きあげようとした時、瞬王子は、何か奇妙な抵抗感を感じることになりました。
もしかしたら彼は目が覚めているのではないかと、瞬王子は一瞬思ったのですが、でも彼の瞼は相変わらず固く閉じられたまま。
多分、それは気のせいだったのでしょう。
意識のない者が瞬王子様に抱きかかえられるのを嫌がったりするはずがありませんからね。

さて、瞬王子は、女の子のようなお顔をしていて、身体つきもとても華奢でしたが、実は大変な力持ちでした。
それだけは、瞬王子の侍女たちもいつも驚いていたのです。
瞬王子は、瞬王子よりずっと立派な体格をした人魚の王子様を軽々と抱き上げました。
人魚の王子様をお姫様抱っこした瞬王子の姿を見た侍女たちが、
「きゃ〜っ! 倒錯的〜!」
とかなんとか、ひどく嬉しそうな叫び声を砂浜に響かせます。
瞬王子は何が倒錯的なのか全然わかりませんでした。






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