自分は氷河に嫌われているのだと、瞬が思うようになったのは、彼が聖闘士になって故国に帰ってきたその日のことだった。 瞬より一足先に帰ってきていた仲間たちの数はさほど多くはなく、10人足らず。 だが、瞬は その時は、これから多くの仲間たちが続々と日本に帰ってくるに違いないと思っていたので、今日 再会成った仲間の数が7年前の10分の1に達していないことにも、城戸邸の広間に兄の姿がないことにも、まだそれほどには不安を覚えていなかった。 会えずにいた時間の分だけ大人びた懐かしい仲間たちの姿。 成し遂げられるとは思っていなかったことを成し遂げられた喜びが、幼馴染みである仲間たちに出会うことで、更に大きなものになる。 精神的にも肉体的にも最も大きな変化を遂げる時期を離れて過ごしていたというのに、瞬は、仲間たちの上に幼い頃の面影を不思議な確かさで見付けることができた。 あの絶海の孤島で、冴え冴えとした夜の海と空を見詰めながら、暖かい春の日に兄や仲間たちと共に笑って過ごしていた城戸邸での日々は本当にあったものだったのかと、幾度疑ったことか。 あの切ないほどに温かく優しい日々の記憶は、自分の孤独な心が作り出した幻影にすぎないのではないのかと、幾度。 だが、あの思い出は幻ではなく、確かにあったものだった。 自分には確かに仲間がいる。 瞬は、何よりもその事実に安堵し、そして喜んでいたのである。 7年分大人になったといっても、まだ十代の少年たち。 城戸邸の広間で再会を喜び合うアテナの聖闘士たちの様子は、いたって無邪気で、実に騒がしいものだった。 「瞬! 瞬、瞬ー!」 その中でも ひときわ元気な仲間が瞬の姿を認めて、駆け寄ってくる。 名前や顔を改めて思い出すまでもなく、彼の姿と表情は、7年前に別れた時そのままだった。 「星矢! 元気だった?」 「元気、元気! おまえは!」 「見ての通り、なんとか」 星矢の前で、右の手を軽く広げ、今の自分がどの程度元気なのかを 旧い友人に示してみせる。 星矢は、 「うん。元気そうだ」 と言って頷き、そうしてから、明るいだけではない笑顔を その顔に浮かべた。 「俺、おまえがいちばん心配だったんだぜ。アンドロメダ島に行く時もずっと泣きっぱなしだったから……。そっか、ちゃんと聖闘士になって帰ってきたか。偉いぞ、瞬。よかった、よかった!」 同い年の星矢にそんなふうに褒められるのは、本来ならば聖闘士の沽券に関わることではあったのだが、瞬の内には全く憤りめいたものは生まれてこなかった。 それほどに、アンドロメダ島に送られるまでの自分は非力で頼りない人間だったのだ。 星矢の心配は至極尤も、その言葉は決して侮蔑ではなく、頼りない仲間への気遣いや思い遣りと呼んで差し支えないものだったろう。 「うん……ありがとう。僕が帰ってこれたんだから、これから僕たちの他にもたくさん――」 「紫龍も帰ってきてるぜ。それから、氷河も。おーい、紫龍ー! 瞬だぞー!」 星矢が瞬の言葉を遮ったことに他意はなかっただろう。 星矢は、ともかく、今ここにいる仲間たちで互いの生還と再会を存分に喜びたかっただけに違いなかった。 星矢に呼ばれた紫龍が、瞬たちのいる方に仲間たちの間を縫ってやってくる。 瞬の姿を見て、彼は僅かに その目を細めた。 「ああ……元気そうでよかった」 ひどく しみじみとした口調でそう言うのは、やはり紫龍がいちばん心配していたのも“泣き虫瞬ちゃん”だったからなのだろう。 紫龍はその件に関しては何も言わなかったが、瞬の胸には少しばかりの羞恥を含んだ、ひどく温かい思いが込みあげてきたのである。 誰もが見知らぬ土地に送られる我が身の未来に不安を覚え、他人のことにまで気がまわらずにいていい状況だった あの時に、彼等は泣き虫の仲間のことまで気遣ってくれていたのだ。 当の“泣き虫瞬ちゃん”自身は、自分と兄のことしか考えていなかったというのに。 「うん、ありがとう。紫龍、その髪、伸ばしてるの?」 「……普通は、背が伸びたとか、元気でいたかとか、そういうことを言うものではないか」 紫龍の外見で際立って変わったところが髪の長さだったので、瞬はその点に言及しただけだったのだが、紫龍は旧い仲間にもっと別の点に着目してほしかったらしい。 彼は、少々わざとらしい渋面を、瞬に作ってみせた。 「まあ、元気かっていちいち聞いてまわるのも変な話だけどな。病弱な聖闘士なんているはずねーんだし」 紫龍の作られた渋面を見て、無邪気に笑いながら、星矢が混ぜ返してくる。 聖闘士である星矢に『元気だったか』と聞いたばかりだった瞬は、軽く両の肩をすくめることになった。 「そうだね」 他愛のない会話が、ひどく楽しく、ひどく嬉しい。 アンドロメダ島での修行の日々は つらく苦しく、悲しいことも多くあったが、あの日々を耐え抜くことができて本当によかったと、瞬は心の底から思ったのである。 聖闘士になるための長くつらい修行に どこかで挫折していたら、自分は今日のこの喜びを味わうことはできなかったのだ。 本当に嬉しい――。 瞬のその気持ちを更に大きなものにしてくれたのは、彼の視界の内に黄金の色をした髪を持った もう一人の仲間の姿が飛び込んできた時だった。 「氷河! 氷河、元気だった !? 」 病弱な聖闘士などいるはずがない――それはわかっているのだが、それでもやはり元気かと聞いてしまう自分に、瞬は内心で苦笑することになったのである。 そんな陳腐な言葉でも、直接仲間に問いかけることができるのは、自分と氷河が共に生きて同じ場所に立っていられるからこそである。 それは、つらい修行に耐え、生きて帰ってきたからこその言葉なのだ。 『元気でいたか』と尋ね、『元気だ』という答えが返ってくる。 それは何と素晴らしいやりとりだろう――と、瞬は思っていたのである。 氷河から、あまりに思いがけない返事を受け取ることになる その寸前まで。 『思いがけない』と言っても、それは さほどおかしな返事ではなかった――だろう、おそらく。 氷河は、『元気だったか』と尋ねた瞬に、 「普通だ」 と答えてきただけだった。 ひどく抑揚のない、冷淡にも感じられる声音で。 氷河のその返答を『冷淡』と感じたのは、もちろん瞬の主観であって、氷河が本当に瞬に対して冷淡な態度をとろうとしたのかどうかは、瞬に判断できるものではなく、瞬が決めていいことでもなかっただろう。 だが、氷河の口調が冷淡ではなかったにしても、非常に落ち着いたものであったことは確かな事実で、彼のその返事を受け取った その瞬間に、瞬は、それまで仲間たちとの再会に浮かれていた気持ちに冷水を浴びせかけられたような気分になってしまったのである。 もし氷河に他意がなく、彼はただ正直なだけだったのだとしても、『元気だった?』『普通だ』のやりとりのあとに、いったいどんな言葉を続ければいいのかが、瞬にはわからなかった。 よりにもよって『普通だ』とは。 それは最も会話を発展させにくい返答である。 瞬は、幼い頃から、この綺麗な髪と瞳を持った仲間に憧れめいた好意を抱いていた。 幼い頃には彼の存在そのものが特殊すぎて、自分から彼に近付いていく勇気は持てなかったのだが、今なら――共に同じ聖闘士になった今なら、それも許されるのではないかと思い込み、調子に乗ってしまった自分の軽率を、瞬は深く悔いることになった。 子供の頃から“物怖じ”というものを知らなかった星矢が、氷河の前で声と言葉を失い萎縮しきっている瞬に気付いた様子もなく、瞬を凍りつかせた氷河に絡んでいく。 「おー、氷河! おまえの聖衣、ヘッドパーツに白鳥の頭がついてて、滅茶苦茶笑える代物なんだって? 見せてくれよー」 星矢のリクエストは、おそらくかなり失礼なものだった。 氷河が、無愛想な表情と声のまま、 「あれは見世物じゃない」 と言って、星矢の要望をにべもなく棄却する。 「そんなこと言ってもさ。今のうちに慣れとかなきゃ、いざって時に爆笑しちまってバトルにならねーかもしれないじゃん」 「それも作戦だ」 「この卑怯者―!」 星矢が、唇をへの字に結び、仲間に対して策を弄する氷河の顔面めがけて 拳を撃ち込んでいく。 瞬はひやりとしたのだが、星矢の拳を顔面すれすれのところで自身の手の平で受けとめた氷河が その手を払いのけた時、彼は先程までの仏頂面はどこへやら、その瞳に愉快そうな笑みを浮かべていた。 彼は、星矢の礼を失したリクエストや乱暴な所作に腹を立ててはいないらしい。 「……」 氷河が星矢に対して笑顔になる理由は、瞬にも わかりすぎるほど よくわかっていた。 星矢はそういう人間なのだ。 太陽のように邪気のない明るさで周囲を照らし、その明るさの中に側にいる人間の心を巻き込んでいく、極めつきの陽性キャラ。それが星矢だった。 氷河の態度は自然なものだった。 星矢の前では、瞬とて つい笑顔を作らずにはいられない。 だが、氷河の、自分に対する態度と星矢に対する態度のあまりの違いに、瞬は落胆しないわけにはいかなかったのである。 城戸邸に集められた子供たちの中では いちばんの泣き虫で弱虫。 いつも、どんなことでも、仲間たちについていくのが精一杯だった みそっかす。 そんな自分が、聖闘士になれたことで、ついに仲間たちと同じ場所に並び立つことができたと考えたこと自体が、そもそも大きな間違いだった。 それは、とんでもない思い上がりだったのだ。 瞬は彼の仲間たちにとって、相変わらず泣き虫で弱虫なみそっかすであり、それ以上の何者でもない。 そして、泣き虫で弱虫のみそっかすだった瞬を 唯一守り庇い続けてくれた兄は、今はまだ弱虫の弟の許に帰ってきてくれていない。 星矢が彼の仲間たちと他愛のない――だが楽しそうな悪ふざけを交わし合っている様を 切なげに見詰めながら、瞬は、俯き、唇を噛んだのである。 |