瞬の兄は生きていた。
彼は、アテナの聖闘士たちの前に敵として現われた。
同じ苦難を知る幼馴染みたちは敵対し合い、そして、互いに戦うことになったのである。
その戦いの中で、瞬の兄は死に、やがて蘇った。
仲間たちとの絆を確かめ合うと、だが、彼はまた いずこともなく姿を消してしまい――瞬は、泣き虫で弱虫のみそっかすである弟を守り庇ってくれる ただ一人の人を、再び見失うことになってしまったのである。

しかし、その頃には、瞬も、再会した幼馴染みたちとの間に、幼い頃のそれとは意味内容の異なる友情と仲間意識を築きつつあった。
瞬は、もともと人当たりがよく、自身の弱さを知るがゆえに謙虚な人間でもあった。
そんな瞬にとって、他の仲間との間のブランクを埋める作業は、さほど困難なことではなかったのである。
だが、氷河とはいつまでもよそよそしいまま。

もちろん、そのよそよそしさを他の仲間たちに気付かせるようなことをしてしまうほど、瞬は子供ではなかったので――子供ではいられなくなっていたので――表面上は瞬は、実に そつなく、自分が氷河の仲間である振りと、自分が氷河に仲間として受け入れられている振りを続けてはいた。
それでも、瞬の心はいつも氷河から一歩退いたところに 心許なげに佇んでいたのである。
氷河に決定的に嫌われることを恐れる瞬には、他に対処の仕様がなかったのだ。
氷河にはっきりと『俺はおまえなんか仲間として認めていない』と言われてしまうことが、瞬は何より恐かったから。

だが、そういう“オトナ”の対応を是とするには若すぎる瞬の仲間たちが、そんなふうに表面ばかりを取り繕った瞬の態度に違和感を覚えないはずがない。
「瞬。おまえは氷河に何か含みでもあるのか」
ある日、瞬にそう尋ねてきたのは、仲間内では最も“オトナ”に近い位置にいるように見えていた龍座の聖闘士だった。

「え?」
「おまえは氷河が嫌いなのか」
「僕が……? え?」
「殺生谷でのこととか、まあ、色々あったから、おまえにも思うところはあるんだろうが、あれは氷河も氷河なりにおまえのことを思って――おまえを庇うためにしたことだ。忘れてやれ」
「紫龍……?」

自分が何を言われているのかが、最初 瞬にはわからなかったのである。
「ぼ……僕が氷河を嫌ってるなんて、そんなことないよ!」
そんなことがあるはずがないではないか。
瞬は、氷河が好きだった。
幼い頃、彼の陽の光のように輝く金色の髪に触ってみたいと、幾度願ったことか。
あの青い瞳の中に映る自分はどんなふうなのだろうと、幾度夢想したことか。
氷河嫌っているなどということは絶対にない。
瞬は、絶対の確信をもって そう断言することができた。

だから、瞬には、紫龍がなぜそんな考えを抱くに至ったのかが理解できなかったのである。
が、瞬の方が氷河を嫌っているのだと思っていたのは、紫龍だけではなかったらしい。
「逆ならわかるぜ。ガキの頃みたいに、おまえが氷河のあとを追っかけてって、愛想笑いもできない氷河がおまえに素っ気なくするのなら、『氷河は相変わらず不器用だなー』で済むんだけどさ。おまえに素っ気なくされて、氷河が人知れず溜め息ついてるなんて図はさ、変なんだよ変」
星矢までが、紫龍の勘違いに困惑している瞬に向かってそんなことを言ってきたのだ。
なぜそんな誤解が生じるのだと、瞬は一瞬言葉を失うことになった。

「そ……そんなことあるわけないでしょ! 僕を嫌ってるのは氷河の方だよ!」
「それは初耳だ。氷河は昔からおまえを憎からず思っていた。だから、おまえの兄は氷河が気に入らなくて――」
「殺生谷でもさ、俺、氷河と一輝が嫉妬剥き出しで いがみ合ってるとしか思えなかったぜ」
「紫龍も星矢も、ほんとに 何言ってるの……」
紫龍と星矢の言は、瞬の混乱を更に大きくすることになった。
殺生谷での戦いが、そんな馬鹿げたことに端を発した戦いであったはずがない。
それではまるで、あの戦いが子供の喧嘩の延長にすぎなかったことになってしまうではないか。
それ以前に、そもそも『瞬 氷河嫌っている』という彼等の認識には大きな誤謬がある。
『氷河に嫌われているのは瞬の方』なのだ。
瞬の中には、自分が氷河に疎まれていると確信するに至った確たる根拠があった。

「だって、日本で再会した時に、氷河は――」
『氷河に嫌われているのは瞬の方』だと自分が信じるに至った確たる根拠を、星矢たちに説明しようとした瞬は、その段になって初めて、自分の確信の根拠が非常に些細な出来事に基づいていることに気付いたのである。
確かに、それは些細な出来事――だった。

『元気だった?』
『普通だ』
やりとりとしては、ただそれだけ。
ただそれだけのやりとりが、だが、臆病な瞬の心に傷を負わせ、痛みを感じさせるには十分な力を持った出来事だったのだ。
二度と会えないかもしれないと思っていた仲間との再会を、日頃の卑屈めいた謙虚を忘れるほど喜んでいた瞬には、氷河のその素っ気ない言葉が、“些細”では済まないほど冷たいものに感じられたのである。
自分が喜んでいるほどには、氷河は二人の再会を喜んでくれてはいない――氷河の言葉の素っ気なさは、その事実を瞬に思い知らせるものだったのだ。

瞬の確信の根拠となったやりとりを、瞬は仲間たちに告げた。
瞬に、その“些細な”やりとりの事実を知らされた紫龍の反応は、だが、瞬には想定外のものだった。
彼は、その瞳を大きく見開いて、
「瞬。それは、ロシアではごく普通――それこそ“普通”の対応だ。ただの習慣――常套句のようなものだ」
と言ったのだ。
「え?」
「ロシアでは、『お元気ですか』と尋ねられたら、4、5歳の子供でも『Нормальноノルマーリナ――普通だ』と答える。英語で言うところの『normalノーマル』だな」
「……『普通』が普通――?」

初めて聞くロシアの“普通”。
ぱちくりと瞬きをした瞬に、紫龍はゆっくりと深く頷いてみせたのである。
「共産主義のソビエトの時代には、人と違うことは――特に、成功してうまくやっていることを周囲にひけらかす行為はタブーで、危険なことですらあったんだ。だから、『お元気ですか』『普通だ』が、それこそ普通のやりとりだったんだろうな。『元気か』と問われた時に『絶好調だ』なんて答えたら、何がどう絶好調なのかと当局に疑惑の目を向けられて、身に覚えのない災厄を自ら背負い込むことになりかねない」

ロシアの“普通”を知らなかったのは瞬だけではなかったらしい。
星矢が、興味深げな目をして、脇から口を挟んでくる。
「それって、『もうかりまっか』『ぼちぼちでんなあ』みたいなもんか」
「今時 そんな会話をする大阪人もあまりいないとは思うが、まあ、そんなものだ。瞬、おまえだって――いや、大抵の日本人は、英語で『 How are you ? 』と挨拶されたら、たとえ絶不調だったとしても『 fine,thank you !』と答えてしまうだろう。それと同じ。ただの習慣、常套句だ。いや、条件反射のようなものだ」
「ただの習慣……? あの……本当に? 氷河は、僕にだけ素っ気ないんじゃなかったの……?」

「それだけはない」
自分のことではないのに紫龍がそこで断言することができたのは、その判断の正しさを保証できる人物の登場に、彼が気付いていたからだったろう。
きっぱりと断言してから、紫龍は、
「そうだろう、氷河?」
と言って、ラウンジのドアの方に視線を巡らせた。

紫龍が視線を向けた そこには、いつのまにか某白鳥座の聖闘士が立っていて、そして、彼は、思いがけない真実を知らされて呆然としている瞬以上に驚いているような眼差しを、瞬の上に据えていた。
「ああ、その通りだ……が、瞬、おまえ、本当にそんなことで……?」
『そんなことで、おまえは、おまえを嫌っていない仲間に よそよそしい態度をとり続けていたのか』とまでは、氷河は言葉にはしなかった。
さすがにそこまで言ってしまっては恨みがましいと考えてのことだったのだろうが、氷河が口にしなかった言葉が、瞬の耳にはちゃんと聞こえていた。

「だ……だって……」
瞬は一応 弁明を試みようとしたのだが、事実は氷河が口にしなかった言葉の通りだったので、瞬には説得力のある弁明を作り出すことはできなかったのである。
瞬は結局小さな声で、
「ごめんなさい」
と氷河に謝ることしかできなかった。

無知は罪ではないかもしれないが、たった一度のやりとりで他人が氷河の心をこう・・と決めつけ、一人で勝手に二人の関係をぎこちなくしてしまった非は、どう考えても自分の側にある。
氷河になじられ責められることを覚悟して、瞬はその場に立ち上がり、彼に謝罪したのだが、そんな瞬の前で、氷河は長い吐息を洩らしただけだった。
それは安堵の吐息だったらしい。
氷河は本当に、自分は仲間に嫌われているのだと思い込み、落ち込んでいた――らしい。
それが誤解で、その誤解が解けたことを、氷河は心から喜んでいるようだった。

信じられない思いで、金髪の旧友を見上げた瞬に、氷河が微笑を向けてくる。
晴れた空の――瞬が憧れ続けた青い瞳に、瞬の姿が映っている。
くらりと目眩いを覚えた瞬は、次の瞬間、氷河の腕と胸に抱きしめられていた。
ほんの数分前まで自分を疎んじていると信じていた人の頬が、自分の頬に触れていることは、瞬にはまさに青天の霹靂だった。
「それでいったら、出会った時に、こうして抱き合って頬をくっつけ合うのも、ロシアの習慣だぞ」

それは、日本人である瞬の中にも、他国の干渉を受けることのない絶海の孤島で育ったアンドロメダ座の聖闘士の中にも存在しない習慣だった。
ゆえに瞬は氷河の所作に驚き、彼の腕の中で全身を硬直させることになったのである。
七つの海に隔てられるよりも長く深く隔てられていると思っていた人との距離が、突然ゼロになってしまったのだ。
その変化があまりに急激すぎて、喜びよりも困惑の方が先に立つ。
もちろん、瞬にとって、それは嬉しい変化ではあったのだが。

ギリシャ育ちの星矢が、仲間二人の熱い抱擁を見て、幾度も首を縦と横に振る。
「あ、それ、よくやるよなー。テレビで見たことある。いい歳したおっさん同士がそれやってさ、気持ち悪くないのかな」
「習慣だからな」
瞬を抱きしめたままで、氷河はそう言った。
「まして、相手がいい歳したおっさんじゃなく瞬だってのなら、へたな女の子と絡んでるより気分いいに決まってるもんな」
氷河の返答に、星矢が奇妙な納得の仕方をする。

それはいったいどういう意味なのかと、いつもの瞬ならば、星矢を問い詰めていただろう。
氷河の腕が、その肩や背に絡んでさえいなかったなら。
氷河の腕が我が身に絡みついているせいで星矢を問い詰めることができず、瞬は、
「その通りだ」
という氷河の答えを、彼の胸の中で聞くことになったのである。
そこまでしてから、氷河は、瞬を抱きしめていた腕をやっと緩めてくれたのだった。

「せっかく世界各地に散っていた者たちが こうして一堂に会したんだ。うまく国際交流をしたいものだな」
紫龍のそれは、仲間二人のわだかまりが消えたことを喜ばしく思ったからこその提案だったろう。
「そ……そうだね」
その提案に異議のなかった瞬は、長髪の仲間に頷いた。
10キロ20キロの距離を疾駆した程度では乱れることもないほどに鍛え抜かれた心臓を、弾む手毬のようにどきどきさせながら。
瞬の肩や背や頬には、氷河の腕や頬の感触と温もりがまだ残っていた。






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