「盲目の希望……って何だよ?」 星矢が氷河非難を中断したのは、氷河が戦場から離脱していったからというより、彼の残していった捨てゼリフ(?)の意味がわからなかったからだった。 星矢に問われた紫龍が、僅かに唇を歪めて、その出典を星矢に教えてくれる。 「アイスキュロスの『プロメテウス』――かな」 「プロメテウスは知ってる。人間に火をくれた神様だよな。アイスキュロスは――」 「ギリシャ悲劇 三大詩人の中の一人だ」 星矢は、紫龍の説明を聞いて、思い切り その顔を歪めることになったのである。 ギリシャで何年も修行をしてきたというのに、星矢は“ギリシャ悲劇”なるものを どうしても好きになることができなかった。 古代ギリシャ文明全盛期・アテネ共和制の最盛期に、なぜ あのように暗くて陰鬱で 人間の可能性を否定するような芸術がもてはやされたのか、星矢には全く理解できなかった。 理解できないものは好きになれない。 好きになれないものを深く知ろうという気にはなれない。 当然、ギリシャ悲劇に関する星矢の知識は、非常に浅薄なものだった。 星矢は、青銅聖闘士の中で唯一、ギリシャ聖域で 聖闘士になるための修行を積むという光栄に浴した聖闘士だったのだが。 そんな星矢に苦笑して、紫龍が『プロメテウス』の解説を始める。 「人間は、昔は自分の死期を知っていたんだ。だが、プロメテウスは人間の心に“盲目の希望”を置き、自分の死を予知できないようにした――と、アイスキュロスは言っている」 「ふん……? だから?」 「自分の死を意識せずにいられるから、人間は自分の未来には無限の可能性があると思い、希望を持って生きていくことができるようになった――というわけだな」 「それって いいことじゃん。氷河は、それを享受できてないとか言ってたけど」 紫龍が、軽く顎をしゃくる。 「それはつまり――冬に終わりがあるように、人の命にも終わりがある。視点を変えて見れば、生きていられるのは今だけだという気持ちが、人に“今”を大切なものだと思わせているのだという考え方も成り立つだろう。盲目的に無限の希望を信じていることが、人間にとって必ずしも いいことだとは限らない」 「そりゃまー、そういう考え方もあるかもしれねーけど……」 「命の終わりを意識せず明るい希望だけを見る生き方と、希望だけを追って生きるのは危険だとする生き方。人の生き方にはいろいろあって、氷河は後者タイプの生き方をよしとしている男なんだろう。命が終わる時を常に意識して生きていくタイプ。まあ、確かに、与えられた時間は限られているという意識があった方が、恋も燃え上がるだろうし、命の密度も濃くなるだろうな」 「だからって、瞬にまで その生き方を強いていいもんじゃないだろ!」 自分が急いているから、他人をも急かす。 急いていない人間には、それは余計なお世話というものだろう――と、せっかちな星矢は 極めてせっかちに思った。 「――それは難しい問題だ。これは本当に、どちらがいいとか悪いとか決められることではないからな」 せっかちな星矢の主張に応じる紫龍の言葉の歯切れが悪いのは、彼が、無限の希望に つまり、紫龍も、どちらかといえば氷河タイプの生き方をよしとしている男なのだ。 それはそうかもしれない――と、星矢も思わないではなかった。 だが、瞬がどちらのスタンスに立って生きていくのかを決めるのは、氷河ではなく瞬自身であるべきである。 もしかしたら瞬は、そんな性急な恋ではなく、ゆったりと慎重に育んでいく恋を望んでいるかもしれないのに、氷河は瞬から瞬の生き方の決定権を奪っているのだ。 その一点において、氷河は確実に重大な罪を犯している。 だから星矢は、氷河が今夜のうちに瞬に正直に真実を告げ謝罪しなかったら、たとえ氷河がどんな理屈をこねてきたとしても、明日 自分はあの独善的な仲間を完膚なきまでに叩きのめしてやることを 固く決意をしたのだった。 |