人生の勝者






「俺たちのように両親も財産もない孤児が生きていくには、この二つの拳を鍛えて這い上がるしかないんだ」
兄の言葉を正しいと思うからではなく、兄の言葉は正しいに決まっていると思うから、瞬はその言葉に頷いた。
実際に その力を得るために努力している兄や仲間たちを見て、『それは嫌だ』『自分には無理だ』等のことを言い張ることは、瞬には到底できることではなかったのである。

それ以前に――他の生き方が自分に許されることがあろうとは、瞬には思えなかったのだ。
瞬が進むべき道は、瞬以外の他者によって既に決められており、瞬が違う道に進みたいと主張することは、現在彼等によって与えられている衣食住の放棄を意味する。
頼ることのできる親も保護者も持たない非力な子供に、選択の権利は与えられていなかった。

だが、氷河の意見は違っていた。
幼い身体に強いられる つらい特訓に挫け涙するたびに、兄に鼓舞叱咤され、もう少しだけ頑張ろうと決意する瞬に、氷河はその決意の無駄を指摘し続けた。
「馬鹿げている。一輝が腕力でのしあがろうとするのは一輝の勝手だし、奴はそういうのに向いているかのかもしれないが、それはどう考えたって おまえは向いていない やり方だ。おまえは痩せっぽちで、非力で、泣き虫。おまえが聖闘士になんかなれるわけがないだろう。無駄だ無駄」
そう言って。

「でも……だって、兄さんが――」
兄がそうするしかないと言っているのだ。
瞬の周囲の環境も、それ以外の生き方を瞬に許してくれるようなものではない。
与えられた道を進む以外、それこそ痩せっぽちで泣き虫で非力な子供に いったい何ができるというのか。
どうしろと、氷河は言うのか。
瞬は、氷河に兄の言を否定されるたび、泣きたい気持ちになった。

「兄貴の言うことは何もかも正しいと思っているのか? 人には向き不向きというものがある。おまえ、『適材適所』という言葉を知っているか」
「……」
そんな言葉を、瞬は知らなかった。
氷河に教えてもらうまでは。
氷河にその言葉を教えてもらって初めて、瞬は自分が非常に不適切な場所に配置された人間だということを知ることになったのである。
そんな言葉の存在を知ることになったのは不幸なことだったろう。
自分に適した場所に在ることが許されない非力な子供には。

氷河に『おまえの努力は無駄だ』と断言されて打ち沈むたび、瞬を、
「『人間じんかん到る処青山せいざんあり』とも言うぞ」
と言って慰めてくれたのは紫龍だった。
『希望を持って生きていれば、人間は、この世界のどこにでも美しく青い山を見付けることができる』という意味らしい。

「氷河。おまえの言うことは至極もっともだが、俺たちには他の道を選ぶことが許されていないんだから、今は与えられた環境で生き延びるために努力するしかないだろう。腕力でのしあがるのは瞬には向いていないというのなら、代わりの道を提示してやるくらいのことはすべきだ。言いっ放しは無責任というものだぞ」
「……」
極めて現実的な紫龍の指摘に――不運な人間にとって、現実というものは残酷なものである――氷河がムッとした顔になる。

瞬の努力を無駄と繰り返す氷河にも、代わりの道を瞬に指し示してやることはできない。
氷河も、今は瞬と大差のない非力な子供にすぎないのだ。
瞬より少しだけ、聖闘士という役割に向いているかもしれないだけの。
氷河もそれは承知しているらしい。
承知していなくても、彼は瞬に“聖闘士になること”に代わる道を示してやることはできないのだから、それは承知しているのと同じことだったろう。

返す言葉に窮した氷河に、紫龍が少しばかり気の毒そうな眼差しを向ける。
否、彼はもしかしたら、氷河にそう言うことしかできない自分自身を哀れんでいたのかもしれなかった。
瞬が聖闘士に向いていないのではないかという考えは、紫龍の中にも確かに存在するものだったのだろう。――おそらく。
だが、その考えを言葉にしてどうなるというのだろう。
今は非力な子供にすぎない瞬の仲間たちが。

「おまえの主張は、『勉強ができないなら、いい成績をとるのはさっさと諦めろ』と言って、瞬に逃避を勧めている、子供を甘やかすことしかできない愚かな親のようなものだ」
「それのどこが悪いんだ。できないとわかっていることを諦めることの何が」
「問題は、瞬は勉強を死ぬほど頑張ったのか、ということだ。おまえはそこを見ずに、ただ闇雲に『向いていない』『諦めろ』を繰り返している」

紫龍の言葉は、瞬の胸に突き刺さった。
『おまえは頑張ったのか』と問われれば、瞬は首を横に振るしかなかったのだ。
努力して努力して、血反吐を吐くくらい努力をして、それでもできなかったのなら、兄も弟の挫折を許してくれるだろう――と思う。
瞬に無理を強いた周囲の大人たちも、それこそ“諦めて”くれるだろう。
だが、瞬は、誰にも、『自分は努力したのだ』と自信を持って言い切れるほどの何事も為してはいなかった。
『努力しよう』と思ったことはあっても、実際に努力したと胸を張って言うことはできない。
だから、瞬は、氷河の言に素直に頷くことができなかったのである。
どんなに頷きたくても――それは“逃げ”にすぎないような気がして。

「瞬の場合は、その努力が実を結ぶ可能性が極端に小さいだろう。頑張っても成功しない可能性の方が大きい。だったら、より成功の可能性があることのために努力する方が、その努力も無駄にならないだろうと言ってるんだ。瞬には無理だ。聖闘士なんて」
氷河は、だが、断言する。
彼自身のことでもないというのに。
瞬の胸は、彼のその言葉にも痛んだ。

「今は一輝が側にいて瞬を守り庇ってやっているが、俺たちはまもなく全員が別々の修行地に送られていくんだぞ。庇ってくれる者もいない見知らぬ土地で、ここでのトレーニングなんかよりずっと過酷な修行が俺たちを待っている。瞬なんて、すぐに挫けて――そして死ぬのが落ちだ」
「だとしても――だとしたら、なおさら『きっとおまえにはできる』と言ってやるのが仲間というものだろう。他に道はないんだから。俺たちは人に与えられるものを何も持っていない。俺たちが瞬に与えてやれるものは、せいぜい希望くらいのものなのに、おまえは瞬に絶望だけを与えている。それは、瞬に『死ね』と言っているのと同じことだ」

紫龍のその言葉に、それまで冷淡としか言いようのない態度と口調を堅持していた氷河が、突然気色ばむ。
いつも瞬を冷たく突き放しているようだった氷河が、信じられないほど感情的な声で、まるで“大人”のようなことを言う紫龍を怒鳴りつけた。
「死んでほしくないから! 俺は瞬に死んでほしくないから、諦めろと言っているんだ! こんな馬鹿げた運命から早く逃げろと!」
「……」
氷河の思いがけない怒声に、紫龍が一瞬 息を呑む。
そうしてから彼は、その全身から力を抜いた。
おそらく、自分が その“馬鹿げた運命”から逃れられない者たちの一人であることを認め、諦めて。
馬鹿げた運命を呪う氷河の声には、悔し涙がにじんでいた。
自分が非力な子供にすきないことに、誰よりも苦しみ悲しんでいるのは、もしかしたら氷河自身なのかもしれなかった。

「氷河……」
そして、瞬の瞳には、氷河のそれとは違う涙がにじみ始めていた。
『おまえは聖闘士に向いていない』という氷河の言葉を断固として否定できないまま、それでも、瞬は、本当は 兄や氷河と同じものになりたかったのだ。
彼等と共にいるために。

聖闘士になりたいとは思わない。
瞬はただ仲間たちと同じものになりたかった。
だが、氷河の言う通り、それは自分には成し遂げることのできない夢だとも思っていた。
成功のビジョンを思い描くことのできない夢のために時間と力を費やすことは つらく、虚しささえ覚える。
夢や希望というものは、それが叶うかもしれないと思った時にだけ、そのための努力を楽しめるようにできている。
自分の望みは叶わないと思った時、そのための努力はすべて つらいだけの徒労になるのだ。

兄の言うことは正しい。
氷河の言うことも正しい。
ただ、瞬には、他の道は与えられていなかった。

その現実を、不運なことだと思い、不幸なことだと思う。
普通の・・・家庭でなら、親は、勉強ができない子供には何らかのスポーツに挑むことを勧めるのではないだろうか。
あるいは、文化芸術の分野の可能性を探ることを示唆するのかもしれない。
それらがだめなら、他の 精神的経済的な自立のよすがになる ささやかな技術を習得するための環境を用意してやろうとする。
そんな環境でも事を成せなかったなら、その子供の親は、我が子が ただ生きていてくれさえすればいいと考えるのだろう。
一人の人間として自立できなくてもいい、いつまでも私が支えてやるからと――と。

次から次へと逃げ道を与えられ、そのいずれかを選んで生きていくことが、普通の家の子供には許されている。
だが、瞬には、聖闘士になるための修行をし、それができなかったら のたれ死ぬ――という道しか与えられていなかった。
それは、瞬だけでなく、氷河も瞬の兄も他の誰も同じである。
死にたくなかったら、聖闘士になれ。
それが、瞬たちに与えられた唯一の道だった。






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