十二宮の戦いののち。
「もう、氷河も何も言えないぞ。聖域の戦いでは、双児宮でも天秤宮でも、氷河はおまえに守られ庇われっぱなし。奴がおまえより弱くて、自分の方がよっぽど聖闘士に向いてないってことを白日のもとに露呈しちまったんだからな。氷河はもう おまえに強いことは言えない。それでも氷河が恥知らずに何か言ってきたとしてもさ、おまえは そんなの無視して、堂々と俺たちの仲間として アテナの聖闘士でいればいいんだよ」
「う……うん……」

瞬がアテナの聖闘士として十二宮の戦いを戦い抜いたことを我がことのように得意がり そう言ってくれる星矢に、瞬は、僅かばかりの気まずさを覚えながら頷いた。
氷河より自分の方が強いとか、聖闘士に向いているとか、そういったことを証明したくて、瞬はあの戦いを戦い抜いたのではなかったのだ。
だが、瞬の中に、『これで氷河は自分を彼と同等の仲間として認めてくれるようになるだろう』という期待があったことは事実だった。
星矢の言う通り、氷河が瞬に『聖闘士に向いていない』と言い張る論拠は失われたのだ。
瞬の期待は、ある意味非常に自然なものだったろう。

だというのに。
十二宮の戦いで一度ならず瞬に命を救われた氷河は、今度は論法を変えて 戦いからの離脱を瞬に迫ってきたのである。
「アテナは無事に彼女が在るべき場所に在ることができるようになった。おまえは聖闘士としての務めを果たしたんだ。安心して、聖衣をアテナに返上しろ」
そう、氷河は言い出したのだ。
「本来は敵でなかったはずの者たちと戦って、わかっただろう。俺や星矢のように、正義のためなんだから敵を傷付けるのも仕方がないと割り切ってしまえない おまえは、これからも敵に勝っても――いや、勝ち続ければ勝ち続けるほど苦しむだけだ。だからもう戦うことはやめろ」
――と。

「氷河……」
アンドロメダ座の聖闘士は、氷河の言う通り 迷い苦しみはしたが、それでも自分が戦うべき戦いを戦い抜いて勝利した。
聖闘士として戦い続けることは、瞬という人間にとって不可能なことではないのだ。
瞬は、それを、現に結果として氷河の前に提示することができたつもりでいた。

なのに、なぜ氷河はそんなふうに言うのか。
彼は、泣き虫だった非力な子供と、同じ聖闘士として同列に見られることが嫌なのか。
もしかしたら彼は、側にいることにも耐えられないほど “瞬”という人間が嫌いなだけなのではないのか。
もしそうなのだとしたら、『氷河に褒めてもらいたい』の一心で、つらい修行に耐え続けた自分の数年間はいったい何だったのか――。

その疑念の答えを瞬に与えることのできるただ一人の人を、その青い瞳を、瞬は唇を引き結んで見上げ見詰めた。
喉の奥と瞳の奥が熱くなっているのがわかる。
聖闘士になるための修行など、氷河に受け入れ認めてもらえない この苦しさに比べたら、つらくも苦しくも悲しくもなかった――と、瞬は思った。

「氷河……僕、強くなったでしょ」
泣きたい――泣いてはならない――と思った時には既に、瞬の瞳は涙で覆われてしまっていた。
どうせこの涙を隠しおおせることはできないと悟った瞬は、その瞬間に、開き直ってしまったのである。
『そんな泣き虫に聖闘士が務まるか』と氷河は言うに違いない。
だが、それが何だというのだ。
瞬は、瞳からあふれてくる涙をそのままにして、氷河に向かって叫んでいた。
「どうして、氷河は、僕を認めてくれないの !? 確かに僕は完璧な聖闘士じゃないかもしれない。欠点だらけで、迷ってばかりで、出来損ないの聖闘士だよ。でも戦って勝って生き延びてる! 生きてるだけでも褒めてやるって、僕に言ってくれたのは氷河じゃない !! なのにどうして……どうして氷河は僕を褒めてくれないのっ !! 」

「瞬……」
滅多に人前で激することのない瞬の、噛みつくように感情的な声と表情に、氷河は少なからず驚いたようだった。
その青い瞳が僅かに見開かれる様を見て、瞬は、その叫びを叫び終える前にもう、自分のしたことを悔やんでいた。
『どうして褒めてくれないの』とは、まるで4、5歳の子供の言い草である。
瞬は、自分の子供じみた訴えを聞いた氷河がどんな言葉で応じてくるのかを、容易に察することができた。

『おまえは、俺に褒めてもらうために聖闘士として戦っているのか』『そんな志の低い人間が聖闘士でいること自体が間違っている』――。
そんな言葉を用いて、氷河は自分に聖闘士であることをやめろと言うに違いない――と、瞬は思った。
が、瞬の案に相違して――瞳に子供じみた涙を浮かべている瞬に氷河が告げた言葉は、『おまえはやはり聖闘士に向いていない』という宣告ではなかったのである。
「俺は……おまえが聖闘士にならずに、ただ生きて帰ってきてくれることだけを望んでいたんだ。それが、あの時の俺にとっての最善の未来だった。おまえが聖闘士にならないこと、おまえが優しい泣き虫のままでいることが」
そう、氷河は言ったのだ。

「僕に聖闘士になってほしくなかった……?」
氷河の望みは、『聖闘士になれなくてもいいから、生き延びてほしい』ではなく『聖闘士になるな』だった――と、氷河は言うのだろうか。
『聖闘士にならずに生き延びる』が次善の策ではなく、彼の期待する最善の結果だった――と?
氷河の呻きにも似た告白に驚くことになったのは、今度は瞬の方だった。

「なぜ、おまえは強くなってしまったんだ。聖闘士になんかなってしまったんだ。おまえは戦いにも聖闘士にも向いてない。戦うたびに苦しむことがわかっているのに」
「氷河……」
「おまえが聖闘士にならず、優しい泣き虫のままでいてくれたなら、俺はおまえを守って、おまえを庇って――おまえを守るために、そのために俺は戦うんだと思うことができたはずだ。俺はそういうおまえが欲しかった。なのに、おまえは、俺に断りもなく勝手に聖闘士になってしまった。おまえは俺の期待を裏切った。俺はおまえを褒めてやることなどできない」

「氷河……そんな……そんな……だって、僕は――」
瞬は、次善の結果より最善の結果の方がいいに決まっていると信じ、その結果を得るために“頑張った”のだ。
それが氷河の期待に反することだったなどと、瞬は考えたこともなかった。
ただ生きて帰るより、聖闘士になって生還することの方が、より氷河に“褒めて”もらえるものと、瞬は何の疑いもなく信じていたのだ。

「ぼ……僕は、氷河のために――氷河に褒めてもらうには、氷河に心配をかけないようになるには、聖闘士になるのがいちばんだと思ったから……。口ではどう言ったって、氷河も本心では僕が聖闘士になることを望んでくれているんだと思ったから――」
「おまえが聖闘士になることを、俺が望んでいるだと?」
氷河が自嘲するように、瞬の言葉を笑う。
氷河のその表情の意味が理解できなくて、瞬は眉根を寄せた。

「氷河……が僕のことを心配してくれてるのはわかってる。きっと、僕は、どんなに強くなっても、氷河に心配かけるんだ。僕はいつもみんなの足手まといなんだと思う。でも、僕は、氷河の仲間として、氷河と一緒に戦いたい。同じ目的をもって生きていたんだよ……!」
瞬を理解できずにいるのは、氷河も同じだったらしい。
瞬がそこまで“氷河”と一緒であることにこだわる訳が 氷河にはわからなかった――ようだった。
そして、氷河がそれ・・を理解できていないこと、氷河がそれを理解できていない事実を見てとれることは、瞬にはひどく つらいことだったのである。

「だって、僕は――だって、僕は子供の頃から氷河が好きだった。いつも氷河と一緒にいたかった。氷河と一緒だったら、生きていることがどんなにつらくても生き続けられると思った」
「……なぜだ。俺はいつも、おまえは聖闘士になれないと、それしか言わなかった。俺は、おまえに否定と絶望だけしか与えてやらなかった。俺は――」
今でも、氷河は、自分の言動を悔いてはいなかった。
『よくないことだ』とわかっていても、氷河は、瞬の希望や夢を否定しないわけにはいかなかったのだ。
他でもない、自分の人生を“よいもの”にするために。

「僕の本当の気持ちをわかってくれるのは氷河だけだった。僕は戦いたくなかった。強くなんかなりたくなかった。聖闘士にだって、心からなりたいなんて思ったことは一度もない。僕は、ただ氷河や兄さんと一緒にいるには、聖闘士になるしかないんだと思ってたから、その可能性にしがみついていただけだった」
“氷河”は“瞬”の本当の気持ちなど わかっていなかった。

「僕は、人を傷付ける聖闘士になんかなりたくなかった。でも、誰にもそんなこと言えなかった。それはあの頃の僕には死を意味していたから。僕が言えないことを、兄さんやみんなに向かって僕が言いたいことを、氷河は僕の代わりに言ってくれてた」
“氷河”は“瞬”が言えないことを代弁してやっていたのではなかった。

「僕は『聖闘士になりたくない』っていう僕の本当の夢を叶えることはできなかった。氷河は、聖闘士になんかならなくていいって、何度も僕に言ってくれたのに。ごめんなさい……」
“氷河”は“瞬”のために『諦めろ』という言葉を繰り返していたのではなかった――。

「瞬……俺は――それは……」
「でも、氷河、僕を許して。僕は、氷河と一緒にいたいっていう夢は叶えられたの。聖闘士になるっていう不本意な形でだけど、僕のもう一つの夢は叶った。僕は、氷河といつまでも一緒にいられる。僕の夢は叶ったんだ――」
「瞬……俺はそんなつもりでは――」
氷河は、そんなつもりで、『おまえは聖闘士になれない』という言葉を繰り返していたのではなかった。






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