それはさておき。
『東の城戸』と並び称される西の大財閥・冥王家は、主に畿内を基盤として、京都の冥王製薬、大阪の冥王製鉄、奈良の冥王製紙という三つの中核企業とその関連会社から成る巨大な複合企業体を運営していた。
三社とも、城戸財閥各社と取り引きがあり、城戸財閥は、冥王グループ三社の株式のそれぞれ1割を保有する大株主という立場にある。
冥王家が関わっている企業の円満かつ順調な経営が、城戸財閥には望ましい。
が、そういえば、氷河は、冥王家の後継者の噂をついぞ聞いたことがなかった。

城戸財閥の代替わりは、なにしろ事情が非常に特殊だったせいもあり、城戸財閥の今後をあれこれ語る者たちや 新総帥の値踏みをする者たちによって、政界・財界を問わず かなりの騒ぎが起こった。
その城戸財閥に匹敵する冥王家の当主が亡くなったとなれば、世間では同様の騒ぎが起こるはずなのである。
主に後継者の才覚の程を、世間は取り沙汰するはずだった。
だが、そんな噂は 氷河の耳に一向に入ってこない。
東と西の違いはあるにしても、これは実に奇妙なことだった。
もしかすると、冥王家では噂好きのお喋りスズメたちが噂をしようにも、肝心の後継者がまだ決まっていないのではないかと氷河は察したのであるが、案の定。

「これは内々の話なのだけれど……。その冥王家で、今 お家騒動が起きているのよ。なにしろ冥王家の先代は、一代で現在の富を築いたワンマン会長だったでしょ。その彼が亡くなって、冥王家では上を下への大騒ぎが起きているらしいわ。それを、あなたに収めてきてほしいのよ」
「……」
城戸財閥の女総帥は、暇を持て余している(ように見える)義兄に腹を立て、突然 彼に仕事を振ることを思いついたのだろうか。
確かにそれは一介の平社員に任せられるような仕事ではなかったが、氷河の“相談役”という役職は、言ってみれば名誉職、氷河は城戸財閥の運営に関わりたいという気持ちは全く持ち合わせていなかった。

「お家騒動――とは、つまり相続争い?」
「ええ、なにしろ、冥王家の先代が残した遺言の内容がとんでもないもので――それこそ、あなたの書いている くだらない小説のネタになるくらい奇天烈なものなのよ」
自分の書いているものを“くだらない”と言われても、氷河はさほど腹は立たなかった。
立てようもなかったのである。
城戸財閥総帥である沙織には探偵小説を読んでいる時間など与えられていない。
彼女は、今 日本中で大人気の大富豪探偵『金第一沙織』の存在など知らないのだ。
もちろん、それは沙織に知られては困ることである。
ともあれ、氷河は、彼女の言う“くだらない小説のネタになるくらい奇天烈な遺言”というものに、大いに興味をそそられた。

「城戸光政の遺言より奇天烈な遺言を、俺は知らないな」
実父を名で呼ぶ。
そういう親子ではあった。
氷河が実父に『経営の才無し』と断定されたのは小学6年生の時。
彼の書いた掌編が日本国小中学生 創作小説コンクールで第一席に選ばれた時だった。
そんな夢見がちな子供に企業の経営は任せられないと判断した氷河の実父は、実の息子の持たない才を持つ沙織を探し出し、その教育に心血を注ぐようになったのである。
実の息子の教育は学校と家庭教師に任せきりにして。
実父に無視される形になった氷河は、だが、それで拗ねることも ぐれることもしなかった。
城戸財閥の運営から実の息子をはじき出した彼の決断は正しいと 氷河は思っていたし、氷河は彼の決断に感謝してもいたのだ。

一人で物語を夢想する行為とは異なり、企業の経営は生半可な気持ちで行なっていいことではない。
沙織を見ていると、氷河にはそれが嫌でもわかった。
日本国民が巨大な敵に向かって(表向きだけでも)心を一つにしていた時代は、既に終焉を迎えた。
世相は大きく変わり、人の心も変わってきている。
国や軍や企業に対して忠義一徹の人間は、今の日本国からはほぼ一掃された。
世相はともかく、我欲を持つことを覚えた人の心は読みにくく、彼等は国の指導者や企業経営者の意図した通りに動くことはない。
そんな人間たちを統率する仕事を押しつけられていたなら、氷河は自分の思い通りに動かない人間たちに癇癪を起こし、早晩城戸財閥を崩壊させてしまっていただろう。

そういう話は、他人事として聞いているに限る。
人の欲はフィクションのネタとして語るから楽しいものなのであり、直接 そんなものに接していたら、自分はそれこそ毎日 反吐を吐いていなければならないだろうと、氷河は思っていた。
が、そういう行為を楽しいと感じることのできる人間もいるのだ。
彼の義妹がそうだった。

「畿内の帝王が残した遺言は、お祖父様の遺言とは対極にあるものと言っていいわね」
氷河が負うはずだった責任を肩代わりしてくれた心優しい妹が、あまり愉快そうにではなく、そう言う。
養女とは言え、年齢差が50もあった養父を、沙織は『お祖父様』と呼んでいた。
彼は、沙織にとって、父というより、経営術や人心掌握術の師であったのだ。

「冥王家の先代は二度結婚していているの。妻は二人共 先に亡くなっているのだけど、彼は二度目の妻との間に実子を二人儲けた。その兄の方は、理由はわからないけど、5年ほど前に家を出ていて行方不明かつ生死不明。妹が一人いて、兄が あと1、2年で失踪宣告による死亡認定が為されそうな今では、彼女が法的には冥王家の唯一の相続人ということになるわね」

「娘が一人だけ、ね。で、その娘はもちろん独身なわけだ」
「成人もしていないそうよ。来月16になるとか」
氷河の推察に沙織が頷き、沙織の言葉に氷河が頷く。
冥王家のただ一人の遺産相続人は、来月結婚ができる年齢になるのだ。
話が読めてきた――と氷河は思った。
城戸財閥ならともかく普通の家では――それが たとえ西の雄・冥王家でも――家督を継ぐのは男子でなければならない。
つまりは、その娘の夫となる人物を誰にするかということで、冥王家では今、大騒動が持ち上がっているのだ。

「その令嬢――瞬という名なのだけど、成人はしていないし、かなり大人しい性格のようで――まあ、自分の意思で夫を選ぶことはできそうにない娘さんらしいの」
「そして、冥王家の者たちは、少しでも自分の得になる人物を彼女の夫に据えようと必死で画策しているわけだ。冥王家の財産の相続権を持つ ただ一人の娘を巡って、男たちの熾烈な戦いが繰り広げられているということか」
それは確かに面白い事態である――他人事として聞いている分には。
氷河は、そして、それはあくまでも他人事だと思っていた。

「ま、そういうこと。冥王家の先代は、世間知らずの娘のために三人の夫候補を指名して亡くなったの。先代には三人の姉妹がいて、それぞれ息子が一人ずつ。先代にとっては甥、相続人の娘さんにとっては従兄弟――ということになるわね。その三人も相当のものらしいけど、彼等の周囲に群がっているハイエナたちもなかなかのものらしいわ」
「夫候補を用意してはいたわけだ。で、冥王家の先代の遺言はどういうものだったんですか」
「そりゃあ、頭痛がするほど ものすごいものよ。あなたの仕事の資料にと思って、写しを手に入れておいたわ」

沙織がそう言って、氷河の執筆机――もとい、キド・ホールディングス相談役室の執務室のデスクの上に、一枚の書類を置く。
氷河がそれを手に取ると、その内容をほとんど暗記しているらしい沙織が、その重要ポイントを口頭で説明してくれた。

「満16歳の誕生日を迎えたら、瞬はただちに三人の従兄弟たちの中から配偶者を選ぶこと。彼女が婚姻の相手として選んだ者が、冥王家の全財産及び冥王家が経営するすべての企業の代表権を継ぐものとする。誰を選ぶかは、瞬の自由意志により、その決定に誰も異議を申し立てることは許されない。ただし、瞬が三人の誰とも結婚しないこともまた許されない。婚姻から3年以内に、瞬とその夫が冥王家の跡継ぎとなる男子を儲けられなかった場合には、二人は速やかに離婚し、瞬は他の二人の中から次の配偶者を選ぶこととする。その者との間にも3年以内に冥王家の跡継ぎとなる男子を儲けられなかった場合には、瞬は他の一人と婚姻することとする――」






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