「――」
冥王家先代の遺した遺言の あまりのすさまじさに、氷河は絶句したのである。
文字通り、声と言葉を失った。
冥王家の先代は、実の娘に、結婚して3年以内に冥王家の後継者となる男子を儲けることができなかったら、次々に夫を変えろと言っているのだ。
それだけでも常軌を逸しているというのに、『ただし、瞬が三人の誰とも結婚しないこともまた許されない』とは、いったい何事だろうか。

「瞬が三人の従兄弟たちとの間に男子を儲けられなかった場合、もしくは三人が命を落とした場合、あるいは三人の誰にも子を成す能力のないことがわかった場合にのみ、瞬は従兄弟たち以外の男を夫にすることができる。その際には、冥王グループ三社の重役会にて承認を得ること。その場合にも、3年以内に男子を成すことができなかった時には、瞬は速やかに他の配偶者を選ぶこととする。何らかの病を得て、あるいは事故により、瞬が落命することがあった場合には、冥王家の全財産及び冥王家が経営するすべての企業の資産は、日本国に寄贈する」
「沙織さん、もう……」

「以上のことは、瞬の兄・一輝が当家に帰り、遺産相続の意思のあることを示した場合には その限りではなく、その場合には冥王家の財産は、瞬に兵庫県K市の家屋敷が与えられる他は、一輝がすべてを相続することとする。一輝が家に帰らず、瞬から子を成す能力が失われたと判断された場合には、冥王家の全財産及び冥王家が経営するすべての企業の資産は、日本国に寄贈する。どう、すごいでしょう」
「……」

『すごいでしょう』と問われれば、氷河は『確かにすごい』と答えるしかなかった。
冥王家の先代の遺言は、城戸光政のそれとは違って、どこまでも 血に――男子の血に――こだわった遺言だった。
自分の血を継いだ男子に冥王家の財を継がせることができないのなら、そんなものは国にやってしまえという徹底振り。
いったい、冥王家の先代にとって、“血”とは、“男子であること”とは、どういう意味を持つことだったのか。
氷河は、当人に直接聞いてみたい欲求にかられた。
それらの物事に何の意味も意義も見い出すことをしなかった城戸光政という男を知っているだけに なおさら、氷河のその欲求は強かった。

女性であり、城戸光政との血の繋がりの全くない沙織は、だが、氷河とは異なる点に怒りを覚えているらしい。
軽く横に首を振りながら、氷河は、怒れる城戸財閥総帥に尋ねてみたのである。
「で、沙織さんは、その遺言のどの点に腹を立てているんです」
「女を道具としてしか見ていないところよ!」
沙織は、怒り心頭に発している様子で氷河に即答してきた。
「瞬さんは、へたをすると、16歳で最初の夫を持ち、19歳で二番目の夫を持ち、22歳で三番目の夫を持つことになるのよ。彼等との間に男子が生まれなかったら、25、28、31、34――。国に冥王家の財産を奪われないために、彼女の周囲の者たちは、彼女が冥王家の跡継ぎを儲けるまで 延々と彼女に新しい夫をあてがい続けるでしょう。女を子供を産む道具としか考えていない。馬鹿げているわ!」

沙織の怒りは至極尤も。
正真正銘の男子である氷河にも、この遺言はあまりに横暴、女子の人権を無視したものと断じないわけにはいかなかった。
これが完全に法的に有効とは思えなかったが、人権侵害を受けている当事者である“未成年で大人しい”相続人には、この遺言の無効を法に訴えることなどできないに違いない。
それ以前に、へたをすれば冥王家の財産を国に没収されかねないことを、冥王家に関わる人間たちが彼女に許すとは、太陽が西から昇っても考えられなかった。
となれば、その気の毒な少女への思い遣りを三人の配偶者候補に期待するしかないのだが――。

「その三人に野心はあるんですか?」
「ないと思うの? 大抵の――普通の人間は あなたとは違う価値観を持っているのよ」
沙織は、氷河の疑問を言下に切って捨てた。
「……」
冥王家の財産は莫大である。
もらえるものならもらっておこうと考えるのが普通の男――ということなのだろう。
普通の男ではない氷河にも、それは かろうじて察しがついた。
では、三人の配偶者候補に、気の毒な遺産相続人への思い遣りはまず期待できないということになる。

「でも、これは部外者が口出しできるようなことではないし、冥王グループの後継者がいつまでも決まらないでいる状態も、私には不都合なの。だから、あなたに、三人の中でいちばん見込みがありそうな者と瞬さんを さっさとくっつけてもらいたいのよ」
氷河にそう告げてから、沙織は釘を刺すように言葉を付け足した。
「顔や性格のことじゃないわよ。経営の才の有無を見極めて、かつ、城戸財閥に好意的な後継者を選んでほしいということよ」

冥王家の女相続人に同情的な城戸財閥総帥も、しかし、ある部分では極めて冷徹である。
彼女は、血統や男子の優越ではなく、個人の才能に、何よりも大きな価値を置いている。
冥王家の相続人の逃亡を計れと言わないところをみると、彼女も、冥王家の財産が国家のものになることは避けたいようだった。

「しかし、その女相続人の兄が帰ってきたら、どんな画策も無駄になるのでは?」
「彼は家を継ぐのが嫌で、冥王家に帰らずにいるという噂よ。実父の葬儀にすら顔を出すことはなかった。たとえ冥王家に戻ってきたとしても、彼が遺産相続の意思のあることを示すことは、まずないわ」
「なるほど」
実にわかりやすい男である。
というより、冥王家の一族の中で、氷河が唯一価値観を共有できそうな人間は、現在行方不明になっているという、その長男だけのようだった。

「この俺が、月下氷人役とはね……」
聞けば、冥王家の女相続人の夫候補たちは、氷河と大して歳の違わない男たちであるらしい。
到底好意を持てないような男たちと不幸な女相続人の取り持ち役など、できれば丁重に辞退したいというのが、氷河の本音だった。
が、沙織には沙織の思惑があるらしく、彼女はどうあっても昼行灯の義兄を冥王家に派遣したいらしい。
氷河の乗り気でない様子を見せられても、彼女は引く気配を見せなかった。

「あなたのような人間は、後世“窓際族”と呼ばれるようになるのよ。私は、城戸財閥のために 何の仕事もせず 売れない小説を書いているあなたに、重役並みの給与を払っているのだから、これくらいのことは快く引き受けてほしいものだわ」
「一応知らせておきますが、俺の本は売れてるんですよ。城戸から受け取る重役報酬より多額の原稿料と印税が、俺の懐には毎月 転がり込んできている」
「大衆小説作家なんて、究極の水商売でしょう。そんな不確かな収入、いつ途絶えることになるかわかったものじゃないし、ネタが枯渇して話が書けなくなることだってあるかもしれないわ。私は、あなたに格好のネタを提供しようと言っているのよ」

「ネタ――」
それは、何と魅惑的な言葉だろう。
氷河は、次の新作長編の〆切りを1ヶ月後に控えていた。
もちろん、今現在、彼の手許にある原稿用紙は雪のように純白である。
実の娘をすら後継者を得るための道具としか見ていないような冥王家先代の残酷や、城戸財閥の維持発展のためになら多少の人権侵害にも目をつぶってしまう城戸財閥総帥の冷徹とは別の冷酷さが、実は氷河の中にもあった。
すなわち、他人だけでなく自分自身の不運不幸もすべて、創作行為の種として見る文筆家の冷酷が。

日本国屈指の財産家とその遺産、か弱い女相続人と、欲にまみれた三人の夫候補。
候補者が確定していない今、冥王家では 何が起こるかわからない。
そして、もの書きとしての氷河は、たとえそれが誰かの不幸につながるものであったとしても、何かが起こってほしいと願わずにはいられなかった。

氷河の冷酷を見透かして、沙織はなにやら皮肉な笑みを、その目許に刻んだ。
「お家騒動にかまけて、冥王グループの企業経営に支障が出るようでは困るの。それでなくても冥王家の先代はワンマンで、すべてを自分で決定していた。彼が亡くなって、冥王グループの者たちは皆、不安な思いでいるでしょうし」
「それはそうでしょうね」
そもそも城戸財閥や冥王グループは、社員が家族だけという小さな町工場や究極の個人経営である文筆家とは、持てる影響力が違うのだ。
大企業に間違いがあれば、数千数万人の人間が路頭に迷うことにもなりかねない。
沙織の懸念は、実に尤もなことだった。

「あるいは、野心家の甥たち三人を殺して、あなたが問題の美少女を篭絡してくれてもいいのだけれど。そうしたら、この私が、我が国の二大財閥を統合して、日本国政府も恐れを為すような超巨大財閥を作ってみせるわ」
物騒なことを言うものだと思ったが、沙織の語る野心よりも別の言葉が氷河の耳に残る。
企業の経営に責任を負っていない一介のもの書きには、それは、日本国の二大財閥の統一統合の可能性などより はるかに重要なことだった。

「その――問題の相続人は美少女なんですか」
「未成年の深窓のご令嬢よ。私は顔も知らないわ。そうとでも言わなきゃ、あなたが行く気になってくれないでしょ。でも、その可能性は大いにあるわよ。冥王家の先代は、その美貌で、神戸の金満家の娘を夢中にさせて妻にし、彼女の家の財を元手にして現在の冥王家の財を築いたと言われているわ。あいにく彼女は子を成さぬまま亡くなって、彼は後妻を迎えたわけだけど、その時には彼は既に相当の財産家になっていたわけで、もちろん彼好みの美女を好きに選ぶことができたでしょうから」
「ほう」

それは、実に実に興味深い――そして、創作意欲をそそられる情報である。
美貌で気の強い大富豪探偵・金第一沙織に、飢えた獣のように獰猛な幾人もの男たちに その身を狙われている可憐な美少女。
その設定が、受ける話にならないわけがない。
――と、一介の もの書きの胸は躍った。

「篭絡するのは構わないけど、それは三人の甥を取り除いてからの話よ。女相続人を ただ篭絡しただけでは、冥王家の財産は国家に奪われてしまうことになるんだから」
そんな氷河に、沙織が重ねて物騒なことを言う。
美貌の大富豪探偵のモデルは、もしかしたら本気でそれを期待しているのではないかと、氷河は一抹の不安を覚えてしまったのである。
氷河には理解できない価値観を持っているという点では、沙織も冥王家先代も大して変わらないのだ。

「よほどの美少女でなければ、俺を“その気”にはできませんよ」
沙織の野心を牽制するために笑ってそう言い、氷河は、冥王家本家の家屋敷がある兵庫県K市に向かったのである。
とりあえず、冥王グループ中核企業三社の大株主である城戸財閥総帥の名代として。






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