まもなく16歳になるという冥王家の遺産相続人は、文句のつけようのない美少女だった。 歳よりは幼く見えたが、顔立ちは整い、その様子は可憐な花のように上品で可愛らしい。 特筆すべきは その瞳で、彼女は、人の欲にまみれた冥王家で何不自由なく育てられたのであろう娘が、これほど澄んだ目をしていていいのかと疑いたくなるように澄んだ瞳の持ち主だった。 着物もスカートも身につけておらず、男子の洋装をしている。 その袖から覗く白い手の清潔さ、女子にしては短く男子にしては長すぎる髪の隙間に見える首筋の頼りない細さ。 少し青ざめているように見える頬のなめらかさ、清らかさ。 “清純”を絵に描いたようなこの少女が、これから幾人もの夫を持ち、場合によっては延々と男性遍歴を重ねることになるかもしれないのだ。 そんなことは決してあってはならないと、氷河は心の底から思ったのである。 先の大戦で、この国では男子の数が激減した。 20年の時をかけて少しずつ、その男女比は戦前のそれに戻りつつあったが、それでもまだ この国の男の数は少ない。 複数の夫を持てるということは、畿内の帝王の令嬢にふさわしい贅沢なのかもしれなかったが、しかし、そんな贅沢は彼女には絶対に似合わない。 彼女は、冥王家の財になど食指を動かさないような誠実な男に、熱烈に愛され慈しまれ、清潔で幸福な生活を送るのがふさわしい少女だと、氷河は思った。 とはいえ、“冥王家の財になど食指を動かさないような誠実な男”というのに、氷河はあまり――ただ一人しか――心当たりがなかったのだが。 すなわち、城戸財閥の遺産相続権を惜しげもなく放棄して昼行灯を決め込んでいる某金髪男しか。 ともかく冥王家の実質唯一の遺産相続人――沙織は『瞬』と呼んでいた――は、素晴らしい美少女だった。 澄んだ瞳の作る眼差しが寂しげなのが気になったが、自らの将来を思えば、よほどの男好きでない限り、彼女が暗澹たる気持ちになるのは当然のこと。 氷河は瞬に同情こそすれ、その沈んだ風情に悪い印象は覚えなかった。 細い肩をしているが、健康そうでもある。 自分の人生を諦めてしまうには、瞬は若すぎるのだろう。 眼差しは寂しげだが、その表情や印象には輝くような生気が感じられる。 この可憐で美しい人間が、物欲や権勢欲にまみれた男たちに汚されることがあってはならないと、氷河は思った。 彼女はこの清らかさに敬意を払われるべき存在だと、ほとんど怒りに似た気持ちで、氷河は確信したのである。 「いらっしゃいませ。城戸……氷河様」 白い花が揺れるような声で名を呼ばれた時、氷河は、正直 気が遠くなりかけたのである。 比喩ではなく、本当にくらりとした。 まさか ここで倒れるわけにはいかないと自分に活を入れた氷河は、おかげで彼女が一人でそこにいるわけではないことに気付いた――初めて気付いた――のである。 瞬より はるかにでかい図体をした男たちが なぜ視界に入っていなかったのかと、一応 氷河は己れの目を疑ったのだが、視点を瞬の上に結ぶと、確かに瞬以外のものが視界から消えてしまう。 自分の目は極めて正直なだけなのだと、氷河は得心した。 「はじめまして。僕がこの冥王家の――娘の瞬です」 そう名乗って氷河に一礼した美少女の横には(背後ではなく横に)、三人の若い男たちが立っていた。 瞬の身辺を警護するためというより、その言動を監視するような――見張るような目をして。 それで、氷河には、その三人が瞬の夫候補の男たちなのだと知れたのである。 三人は、氷河よりは年上で、一癖も二癖もありそうな目付きをしていた。 一応、それぞれ、それなりに美形ではある。 沙織から事前に渡された資料によると、彼等は、冥王家先代の姉と二人の妹たちが他家に嫁ぎ、そこで儲けた息子たち――ということだった。 名は、先代の姉の嫁いだ天貴家の貴人、上の妹の嫁いだ天猛家の 猛人、下の妹の嫁いだ天雄家の 雄人。 横並びの精神を尊んだためなのか、むしろ捩じくれた競争心なのか、三人の名は三人とも『たけと』と読むらしい。 それぞれ、京都、大阪、奈良に実家があり、父親たちもそれぞれ、冥王製薬、冥王製鉄、冥王製紙の専務取締役の地位に就いている。 先代の葬儀以後、三人は本家の娘を我が物にするために、冥王家本家に集まっているということだった。 同じ名の三人を区別するため、冥王家先代の姉の子である『貴人』だけが『たけと』と呼ばれ、先代の妹の息子である猛人と雄人は、それぞれ『もうと』『ゆうと』と呼ばれているそうだった 貴人は神経質な芸術家風、猛人は無骨で粗野な武士風、雄人は無駄に好戦的な軍人風。 共通しているのは、三人が三人共、傲慢でプライドが高そうなこと。 氷河はもちろん、瞬の夫候補である男たちに良い印象を持たなかったのだが、それは彼等も同じだったらしい。 彼等の中には『若い男はすべて敵』という考えがあるのかもしれなかった。 それ以前に、瞬を見詰める氷河の目を見たら、彼女の夫候補である男たちが氷河に好意を持つことなど、到底不可能なことだったろうが。 共通の敵を目の前にして、最も敵対し合っているはずの三人は突如結託し、氷河を貶めにかかった。 「なんだ、この毛唐は」 「城戸財閥総帥の名代だそうだ。妹の使い走りで来たんだろう」 「あの有名な無能息子か! それはまた、ご苦労なことだ」 すべてが真実だったので、氷河は彼等に反論しなかった。 腹を立てる気にもならなかった――だけのことだったのだが、従兄弟たちの礼を欠いた言葉を聞いた瞬が、気弱に申し訳なさそうな視線を氷河に向けてくる。 氷河が無言で彼女に微笑を返すと、瞬はほっと安堵したように――彼女もまた、氷河に微かな笑みを返してくれた。 言葉を用いずに交わされる瞬との会話は心地良く、瞬のその様は実に可愛らしい。 そして、氷河と瞬がそんなふうに無言のやりとりをしている間にも、瞬の従兄弟たちの雑言は続いていた。 「まったく、先代も、瞬に選ばせるのではなく、先代自身が我々三人の中から後継者を指名して、瞬を与えるようにしてくれればよかったのに」 「決めかねたんだろう。どこぞの財閥の無能息子と違って、冥王家の血を引く者は総じて有能だ」 「まあ、俺が瞬の夫になり冥王家の跡を継いでも、有能なおまえたちを追い出したりはしないから、それは安心していていいぞ」 「飼い殺しにするわけだな。無論、俺もそうするが」 「敗者復活戦があり得るんだ。この家を出るわけにはいかないだろう」 「そういうことだ」 彼等が口にする氷河への嫌味は、徐々にライバル同士での牽制に変化しつつあった。 「16歳の瞬、19歳の瞬、21歳の瞬か。どのあたりが好みだ?」 「青くさいガキより練れた女の方がいいに決まっているが、二番手三番手に甘んじて、先に男子を作られてしまっては 元も子もないからな。当然、一番手を狙う」 「愚問だな」 瞬の前で 平気でそんな会話を交わしてしまう彼等の無神経が、氷河には全く理解できなかった。 冥王家の先代は、三人の従兄弟たちの中の誰を夫にするかの決定は、瞬の意思に任せると遺言していたはずである。 その瞬の前で堂々とこんなやりとりをして、瞬の好意を得られることがあると、彼等は本気で思っているのだろうか。 それがわかっていないのなら、彼等は城戸家の無能息子より愚かな者たちであり、三人が最初から瞬の意思を尊重する気がないというのであれば、彼等は冥王家先代・城戸家先代よりも冷酷な人非人たちだった。 三人の従兄弟たちに、心を持たない物のように扱われている瞬は、彼等の間でその顔を俯かせている。 「瞬様」 そこにお茶を持ってやってきたのは、先程の黒衣の召使いだった。 トレイの上のティーカップは2つ。 「あら」 ここにいるはずのない者たちが なぜここにいるのかと言わんばかりの彼女の短い声に、瞬の三人の夫候補たちが不愉快そうに顔を歪める。 何やら文句を言いたげな素振りを見せたが、彼等は結局 三人打ち揃って、そのまま客間を出ていってしまった。 いてはならぬ者扱いされたことが、彼等の気に障ったらしい。 黒衣の女は黒衣の女で、彼等の無礼に相当憤っているようだった。 「一輝様さえいらしたら、あんな奴等、さっさと裏の山に生ゴミと一緒に捨ててやるのに!」 使用人らしからぬ言葉を吐いてから、彼女は運んできたティーカップをテーブルの上に置き、瞬に視線で同意を求めた――ようだった。 彼女はどうやら、分家の三人ではなく冥王家本家兄妹の味方であるらしい。 生死不明とされている瞬の兄の名を口にして、彼女は悔しそうに歯噛みをした。 「パンドラ」 軽く瞬にたしなめられた黒衣の女が、はっと我にかえったように氷河と瞬に一礼する。 それから彼女は、使用人らしく それ以上の無駄口は叩かずに、だが メイドらしからぬ乱暴な大股で客間を出ていったのだった。 |