『やっと二人きりになれたな』
と言ってしまいそうになって、氷河は慌てて唇を引き結んだのである。
瞬と、瞬の三人の図々しい夫候補。
とりあえず、これで冥王家お家騒動の主な登場人物との対面は済んだことになるらしいが、彼等の他にも、三人の夫候補の親や冥王グループ各社の重役、相続のお零れに預かりたい遠い親戚たち等、関係者はまだまだいるのだろう。
想像しただけでうんざりし、うんざりした表情を隠しもせずに、氷河は英国風のソファに腰をおろした。

「申し訳ありません。彼等の言ったことは、どうか お気になさらないでください。従兄弟たちの非礼は僕がお詫びします」
そんな氷河に、瞬が丁寧に腰を折ってくる。
この家で最も礼儀正しいのは、どうやら この家の法律上の当主のようだった。
「僕?」
その当主が似合わない一人称を用いるのを耳にとめ、氷河は微かに片眉をあげた。

「あ……あの……」
瞬が、当惑したような表情を浮かべる。
誰からも冥王家の後継者を儲ける道具扱いされて、瞬は自分が女性であることを嫌だと感じているのかもしれない。
それゆえの『僕』、それゆえの男装なのかもしれない――。
ささやかな瞬の抵抗に、氷河は決して不快を覚えたわけではなかった。
氷河はむしろ、瞬への同情心に支配されていたのである。
「まあ、『わし』や『わがはい』よりはずっといい。座って」
笑って、氷河がそう言うと、
「はい、すみません……」
済まなそうな目をして、瞬は氷河の指示に従った。

向かい合って近くで見ると、瞬はつくづく可愛らしい面立ちをしていた。
素直そうで優しげで温かそうで、大人しそうでもあるが豊かな感受性を有していることを感じさせる瞳と表情。
これほど人間らしい人間を道具扱いできる者たちの神経が理解できないと、氷河は改めて思ったのである。

とりあえず、城戸財閥総帥の名代としての務めを果たすため、氷河は、沙織からの伝言――冥王家先代への弔意――を、瞬に伝えた。
が、氷河は、冥王グループの後継者の迅速な決定とグループの安定を期待する城戸財閥総帥の言葉は、婉曲的にでも瞬に伝える気にはなれなかったのである。
なので、氷河はその件については触れなかった。
代わりに、自分が“観光のために”しばらく付近のホテルに滞在するつもりでいること、その間 幾度か冥王家を訪問することを許してほしいと、そんなことを告げる。
瞬はわざわざホテルをとる必要はないと言って、氷河の冥王家への宿泊を申し出てくれた。
そうしてから、
「城戸の総帥のご期待に応えられたらいいんですけど……」
と、小さく呟く。

「……」
氷河が伝えることのできなかった城戸財閥総帥の本当の用件を、瞬は承知しているようだった。
氷河は大いに気が咎め、同時に、瞬の美徳の目録に『聡明』の項目を追加することになったのである。

氷河の希望的観測だったのかもしれないが、瞬は彼女の夫候補である三人の男たちを嫌っているようだった。
嫌っていないにしても、好ましく感じてはいない――ように、氷河の目には映ったのである。
氷河が瞬の申し出に甘え、冥王家滞在の意思を伝えると、瞬は嬉しそうに その瞳を輝かせた。
「よかった。あの三人がいるせいか、最近 家の空気が澱んでいるようで……」
そこまで言ってしまってから、それは口にしてはならないことなのだと、瞬は思い直したらしい。
一度軽く唇を噛んでから、瞬は、何か不思議なものを見るような目を氷河に向けてきた。

「あの、不躾な質問を許してください。氷河さんは、どうして城戸家の財産や財閥総帥の地位を他の方に譲ってしまわれたんですか? 氷河さんは、城戸家の先代の ただ一人の実子と聞いています。氷河さんは、遺言の実行に異議を申し立てて、遺留分を受け取ることもできたはずですよね?」
確かに不躾ではあったが、あの三人の話をされるよりはずっといい。
氷河は、微かに顎をしゃくるようにして 瞬に頷いた。

「氷河でいい。興味がなかったからだ。金を増やすことにも減らすことにも」
それは事実だった。
城戸家が相続手続きに入った時、『これはもらってやってもいいというものがあったら、教えてちょうだい』と言う沙織に手渡された 城戸家の財産目録の1ページ目を見ただけで、氷河は心底から うんざりした。

「城戸の財産なんて、そんなものを任されても、俺は財閥解体のためにしか動けなかっただろう。あんなものはなくなってしまった方がすっきりするしな。だが、それでは困る者が城戸の周辺には何万人もいるわけで、俺は城戸を継いですっきりしてしまうわけにはいかなかった。城戸の財産を相続しなくても、俺は自分の食い扶持くらいは自分の手で稼げたし、幸い我が家には 城戸を継いでくれる奇特な者もいた」
その奇特な義妹に、氷河は心底から感謝していた。
城戸の財産を彼女に委ねることで、氷河は実に多くのものを手に入れることができたのだ。
他人に干渉されない将来、境遇、自由、気楽さ――。
それらはどれも、金では贖えないものである。

「本当に未練はなかった?」
「金は、なくても困るが、ありすぎても困る。大金は人の自由を阻害する」
「僕もそう思います。ほんの少しのお金と、心を許せる友人が幾人かいてくれれば、人が生きていくには、それで十分だと」
「――」

氷河の持論に、いささかのためらいもなく賛意を示してくれたのは、瞬が初めてだった。
『普通の小金持ちならともかく、あの城戸を継げるはずだったのに』
と、氷河の性格をよく知る ごく親しい友人たちでさえ、氷河の決定には呆れ顔を向けてきたのだ。
瞬は、金銭というものに関して、氷河と同じ考えを持っているらしい。
しかし、瞬のその言葉に、氷河は少々異議があった。
瞬の言う“人が生きていくには、それで十分”なものには、大事なものが一つ欠けていたのだ。

「もう一つ。君を心から愛してくれる恋人」
かなり無理をして――氷河は、でき得る限り軽い口調を作って、瞬にその“大事なもの”を知らせてやった。
瞬が、力なく その首を横に振る。
「僕が冥王家の相続人である限り、そんな人は現われません」
「そんなことはない。君は綺麗だし、可愛いし、普通の男は、その目に見詰められたら 即座に君にいかれてしまうだろう」

でき得る限り軽い口調で――氷河は瞬に告白をしたつもりだった。
瞬に氷河の意図がうまく通じなかったのは、どうやら 氷河が瞬に“普通の男”と認識されていなかったせい――らしい。
莫大な城戸家の財産を惜しげもなく捨ててしまう氷河は、『ほんの少しのお金と、心を許せる友人が幾人かいてくれれば、人が生きていくには、それで十分』と言い切る瞬にも“普通の男”とは思えなかったのだろう。
それでも、瞬は、彼女の大金不要論への賛同者を得たことを喜んだらしく、嬉しそうに その瞳を輝かせたのである。

「僕の考えに賛同してくれたのは、氷河さんが初めてです。他の人は、それは僕が冥王家の財産を相続する人間だから言えることだって言って、まともに取り合ってくれないの」
「氷河だ、瞬」
「え……」
氷河が何を求めてそんなことを言ったのかということは すぐに理解したらしいのだが、氷河の求めに応じることを、瞬はかなり躊躇したようだった。
『しばし』と言うには長すぎる時間をおいてから、瞬が恐る恐る、
「あの……氷河……が初めてです」
と、敬称なしで氷河の名を口にする。
瞬が礼儀をわきまえていること、遠慮がちなこと、自分のものになる財に驕っていないこと――そんなふうな瞬の何もかもが、いちいち氷河の好みだった。

となると、気になるのは、やはり瞬の夫候補たちのこと。
氷河は、それこそ不躾に――単刀直入に――、その件を瞬に尋ねてみたのである。
「あの従兄弟たちの中に好きな奴がいるのか」
「いいえ」
ほとんど迷った様子もなく、瞬が首を横に振る。
それは瞬にとっては不幸なことだが、氷河にとっては幸運以外の何物でもなかった。
瞬の答えは、氷河を大いに喜ばせた。
「父も――父は、あの三人を嫌っていたんです。父がどうしてあんな遺言を残したのか、僕にはわかりません」
「先代があの三人を嫌っていた?」

あの三人を嫌う先代の気持ちは実によく理解できるが、それではあの遺言の意図がわからない。
そこまで――好悪の感情を無視できるほど――、冥王家の先代は“血”にこだわる人物だったのだろうか?
たとえば、氷河の父のように、“血”よりも“才”を重んじることをしない人間が、巨万の富を成し、それを維持することができるものだろうか?
一代で冥王家の今の財を築いた冥王家先代には、文字通り血も涙も捨てなければならないことが幾度もあったはずである。
そんなものを持っていては、僅か数十年で これほどの財を築くことは不可能なのだ。
あるいは、血も涙も捨てた男だったからこそ、最後の最後に血に囚われてしまった――ということなのか――。

畿内の帝王と呼ばれた男も、所詮は血の通った一人の人間にすぎなかったというのなら、それは考えられないことではない。
だが、その末期の願いを叶えるための道具として実の娘の意思を無視する行為は、それこそ血も涙もない致しようである。

冥王家先代の意図、瞬の心、その姿――。
色々なものに思考と心をかき乱され、その夜 氷河は、冥王家の客用寝室の広いベッドの中で なかなか寝つくことができなかった。






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