翌日から、氷河の身のまわりをしてくれたのは、あの黒衣の女――パンドラという名の日独のハーフ――だった。
彼女は、冥王家先代のプライベートでの腹心だったらしい。
20歳はすぎているのだろうが、年齢不詳(さすがに氷河も女性に年齢を訊くことはできなかった)。
少女のように若くも見えるが、中年女の貫禄と したたかさも備えているような――パンドラは不思議な雰囲気を持つ女だった。

“プライベートでの腹心”と言っても妾というのではなく、パンドラと冥王家先代は 主従の契りを交わした主人と部下のように忠義心で結ばれた関係だったらしい。
彼女は、冥王家の全使用人の管理調整を任されているということだった。
彼女自身も冥王家の使用人ではあるのだが、使用人としては異例の権限を与えられている。
冥王家の先代は、その遺言で、冥王グループの中核企業三社のそれぞれ2パーセントに当たる株式を彼女に遺贈した。
つまり、彼女は、個人としては冥王家の一族に次ぐ冥王グループの大株主なのである。
彼女は、この家の誰からも――あの三人からも―― 一目置かれる存在のようだった。

そのパンドラは、瞬とその兄 一輝の兄弟を贔屓にしていて、本心では一輝の帰還と冥王家相続を望んでいるらしい。
そして、それこそが冥王家先代の本当の希望だったのだ――と、これはパンドラ本人から聞いた話。
氷河が水を向けると、彼女は、一輝と瞬を口を極めて褒めそやし、瞬の三人の夫候補を口を極めてののしり始めた。

「本当に、先代は、なぜあのような者たちを瞬様の夫にしようなどと考えたのか、私には理解しかねます」
口ではそう言うが、この女は冥王家先代の考えについて何かを知っている。
――と、氷河は思ったのである。
伊達に探偵小説を書いているわけではないのだ。
氷河は、人の素振りや表情を観察し、その心を探る術には長けている男だった。
そんな氷河にも、冥王家先代の真意は量りかねるものだったのだが。
いずれにしても、パンドラは、冥王家の先代同様、瞬の夫候補たちを嫌っているらしく、だからというわけでもないのだろうが、氷河には非常に好意的だった。

「冥王家の先代とはどんな人物だったんだ? 写真を見る限りでは、随分と威厳に満ちていて、若い頃には相当の美貌だったんだろうことは察しがつくが。……まあ、瞬の父親だしな」
「瞬様は、お母様の面差しも受け継いでいらっしゃいます」
瞬の夫候補たちを語る時には忌々しげだった彼女の表情が、瞬を語る時には 目に見えてなごやかになる。
彼女は、先代に捧げていた忠誠心を、そのまま瞬に向けているらしい。
そして、瞬の夫になる者に忠義を尽くすつもりは金輪際ないらしい。
冥王家先代の考えや人柄は全くわからないが、そんなパンドラの様子を見ているだけで、瞬の夫候補たちが他人にどう思われるような人物であるのかは、氷河にもわかりすぎるほど よくわかった。

「先代のお人柄というのなら、そうですね……。貴人様が先代の肖像画を描かれています。写真よりはお人柄が窺えるかもしれません」
「肖像画? あの男にモデルの人柄を窺えるほどの絵が描けるのか?」
「昨今は、抽象絵画やシュールレアリスム全盛で細密肖像画を描く画家があまりいないせいか、ひっきりなしに注文は来ているようですわよ。趣味の域は出ている――でしょうね。人柄が窺えるほどのものかどうかは、私には何とも……。ご自分の目でお確かめになってみては?」
使用人の身で批評めいたことはしたくないのか、別に意図があるのか、彼女は氷河に貴人のアトリエを訪ねることを勧めてきた。

「お庭の東にアトリエがあるんです。そこに先代の絵があるはずですわ。あの男、先代が亡くなるなり、瞬様のご許可も得ずに画材を運び込んで、庭の小舎を勝手に占領してしまって……! もし誰もいなかったとしても、勝手に入っていっても構いませんわよ」
そう言ってパンドラが指差した窓の向こうに、母屋とはつながっていない小さな建物が見えた。
母屋からは100メートルほど離れているだろうか。
『小さな建物』と言っても、一般的な庶民の一家族が住まうことのできるほどの大きさはあったが。
西欧のどこかの国の田舎家を模したような洒落た建築物である。

「なるほど。冥王家の庭のプチ・トリアノンといったところか」
『三人の中でいちばん見込みがありそうな者と瞬を さっさとくっつけてほしい』という沙織の指示を遂行する意思は とうの昔に氷河の中から消え失せていたが、問題の三人が瞬にふさわしくないことを確認する作業は意欲的にこなしたい。
冥王家先代の人柄を知りたいというより、天貴貴人の人となりと画才を見極めてやろうという気持ちに突き動かされて、氷河は、貴人のアトリエに行ってみることにしたのである。






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