天貴貴人が勝手に占領してしまったというアトリエには、人がいた。
絵描きと、そして瞬が。
さほど広くはない部屋の中央には大きな木製のテーブルがあり、その上には雑然と画材が置かれている。
壁際には幾枚かのカンバスが立て掛けてあった。
パンドラに言われた通り、そこに誰もいなかったとしても勝手に中に入るつもりでいた氷河は、庭に向かって開け放たれたフランス窓の向こうに瞬と天貴貴人の姿を見い出すと、その窓の横で足をとめることになったのである。

「いつも最も先代の側にいたのはおまえだからな。これが最後の肖像画になるだろうし、おまえの意見を聞きたい」
「もっと険しい目をしてしました。いえ、険しいというより冷ややかな……」
「ああ、そんな目だったな。私は、あんな年寄りより、ずっとおまえを描きたいと思っていたんだが」
「僕なんか描いても、誰も作品を引き取ってくれませんよ」

先代の最後の肖像画制作への意見を求めるという名目で、彼は瞬を口説こうとしているようだった。
婉曲的に受け取りを拒否する瞬の返答に、アトリエの外で氷河は深く頷いたのだが、瞬の拒絶を意に介したふうもなく、貴人は、
「私の寝室に飾るために描くんだ」
と、たわけたことを言ってくれた。
二人の会話を盗み聞いていた氷河は、貴人のその言い草に、思い切り むっとすることになったのである。

「あとの二人はともかく、私は、おまえがこれほど美しくなかったなら、どれほど金を積まれても おまえの夫になろうなどと考えなかった。私は、絵で十分に食っていけるからな」
「でも、この家の財産は欲しいのでしょう」
「あの二人の上に立ちたいだけだ。それに、まあ、金はいくらあっても困るものではないし」
天貴貴人が本当に欲しているものは、冥王家の財産そのものではなく、冥王家の一族の長となって従兄弟たちを支配することなのかもしれなかった。
少なくとも彼は、冥王グループの一層の発展のために努めるつもりはないらしい。
それは、沙織の希望とは異なるものである。
これはぜひとも 城戸財閥総帥の耳に入れなければならない情報だろうと、氷河の心は躍った。

「おまえの夫には私が妥当だ。あとの二人は粗野で下品で、おまえには似合わない。おまえ自身、そう思っているのではないか? あの二人は、妻に暴力を振るうのも夫の当然の権利と思っているような奴等だぞ。私はそんなことはしない。私はおまえが相続する冥王家の財産だけでなく、この美しさも気に入っている。さっさと私を夫にすると決めた方が賢明だ」
「僕は……」
「まあ、いずれにせよ、おまえは、いやでも私を選ぶことになるがな」
「なぜです?」

瞬が問うたことに、貴人はすぐには答えなかった。
氷河が身を潜ませていた窓の側に歩み寄り、その窓を閉じる。
貴人が窓を閉じる直前に、彼の言語道断の返答が氷河の耳に飛び込んできた。
「おまえが、今ここで私に犯されるからだ」
(な……!)
貴人の企みを聞かされた氷河と瞬の、いったいどちらの方が より大きな驚愕に支配されたのか――。
それはいずれとも言えなかったが、先に驚きの感情を別の感情に変化させたのは氷河の方だったろう。

建物の中で、何かが床に落ち割れる音がした。
貴人の暴力を逃れようとした瞬が、その弾みに 絵の具皿か何かをテーブルから落としたらしい。
「嘘……冗談はやめてください……!」
「怪我をしたくなかったら、大人しくしろ。いくら叫んでも無駄だ。このアトリエは母屋から離れているし、使用人共には 絵を描くから誰も来ないようにと命じてある」

堅牢とは言い難い小さな建物。
母屋に向かった窓にはガラスが一枚 嵌め込まれているだけ。
それらは、瞬と貴人を建物の中に閉じ込めることはできても、二人の声を完全に遮断することはできていなかった。
だが、ここで瞬が誰かに救いを求めて声をあげたとしても、それが母屋にいる者たちの耳にまで届くことはないだろう。

「放してください! やめてっ!」
氷河がそこにいなかったなら、瞬のその声を聞く者は貴人だけだったはずである。
だが、幸いなことに、氷河はそこにいたのだ。
「放してっ!」

氷河は、フランス窓の側から離れ、建物の扉のある東側に急いだ。
「瞬っ!」
鍵がかかっているに違いないと思って体当たりした木製の扉は、意想外に親切かつ ただちに氷河を室内に迎え入れてくれた。
扉に鍵もかけずに、貴人はその無体に及ぼうとしていたらしい。
押し倒されたのか引き倒されたのか、床に肩を押しつけられていた瞬が、悲鳴のように彼女の救い主の名を呼ぶ。
「氷河……!」

「貴様、私のアトリエに勝手に――」
貴人は、氷河の訪問を アトリエの扉ほどには歓迎してくれなかった。
だが、こんな状況で、入室の許可を得る者がいるだろうか。
瞬の上にのしかかっている貴人にかっとなった氷河は、大股で二人の側に歩み寄り、貴人の襟首を掴み上げて、入室の許可を得る前に 彼を殴り飛ばしていた。
瞬から引きはがした貴人の身体を、更に乱暴に蹴り上げる。
氷河はとにかく、できる限り貴人を瞬から遠ざけたかったのだ。

「瞬、無事か!」
「ああ……!」
かすれた声を洩らして、瞬が氷河の腕にすがってくる。
その髪は乱れ、きっちり上まで留めていたらしいシャツのボタンも千切れそうになってはいたが、それ以上の危害が瞬に加えられた様子はない。
その事実を確かめ終えた直後の数秒間だけ、氷河は怒りの気持ちを忘れて、安堵の思いを味わうことになったのである。

「瞬の夫になる者は、瞬の自由意志によってのみ決められる――というのが先代の遺言ではなかったか!」
細い腰と肩を抱きかかえるようにして瞬を立ちあがらせてから、氷河は、木の床に倒れている貴人を見下ろし、彼を怒鳴りつけた。
もっと殴ってやりたかったし、いっそ殺してやりたいとも思った。
が、自分の腕の中にいる瞬が怯え震えているのがわかるから――氷河は、かろうじて自重することができたのである。
これ以上、瞬に暴力沙汰を見せるわけにはいかない。
そう考えた氷河は、それきり貴人に目をくれることもせず、瞬の身体を支えるようにして、卑劣な行為が行なわれそうになった建物の外に瞬を連れ出した。

「母屋まで歩けるか」
未だ震えを治められずにいる瞬に尋ねると、瞬は頷く代わりに、
「パンドラには言わないで」
と、小さな声で氷河に懇願してきた。
「しかし……」

これは立派な婦女暴行未遂事件である。
うまくすれば貴人を留置所の住人にすることも、前科者にすることもできるのに――と、正直 氷河は思った。
だが、まもなく、こんなことが公になれば、より深い傷を負うことになるのは瞬の方なのだということに思い至る。
『何もなかった』と氷河が証言したところで、世間がそれを信じてくれるかどうか――。
瞬の身を守るために、氷河は口を閉ざすしかなかったのである。
「貴人に、何か傷付くようなことを言われたらしい」
氷河はそう言って、パンドラに、青ざめた頬をした瞬の身を預けることしかできなかった。


未遂に終わったとはいえ、己れのあさましい企みにきまりの悪さを覚えたのか、あるいは、そんな卑劣を企てる男も恥というものを知っていたのか――氷河にはそう思うことはできなかったが――、その日、貴人は夜になっても母屋に戻ってこなかった。
どのツラをさげて、彼は冥王家の者たちの前に姿を現わすのかと、はらわたの煮えくりかえる思いで、氷河は彼の登場を待っていたのだが。

日が暮れても、母屋から見えるアトリエには灯かりがつかない。
「おかしいわね。昼食にも戻ってこなかったのに、夕食にも戻ってこないなんて」
パンドラが、下男の一人にアトリエの様子を見に向かわせたのは、貴人の身を案じたというより、食事の後片付けが済まないことに苛立っていたからだったろう。
が、まもなく、冥王家は 食事の後始末どころではない騒ぎに見舞われることになったのである。

パンドラの指示でアトリエの様子を見るために母屋を出た5分後、その下男は血相を変えて母屋に戻ってきた。
そして、彼は、玄関に倒れ込むなり、金切り声にも胴間声にも聞こえる声で、
「パンドラ様! アトリエで……アトリエで、貴人様が死んでますっ!」
と叫んだのだ。






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