- II -






天貴貴人が死んでいると その下男が判断したのは、貴人がアトリエにしている建物の扉に鍵がかかっていて 中に入ることができなかったから。
窓から室内を窺った際、床に仰臥している貴人の顔がひどく引きつっているようで、しかも微動だにしなかったから――だったらしい。
室内は暗く、下男は月明かりだけを頼りに中の様子を窺ったのだが、彼がそう思い込んだとしても、それは さほど不自然なことではなかっただろう。
だが、貴人は死んではいなかった。

下男の報を受けたパンドラと氷河、数人の使用人たちはすぐさま 灯かりを持ってアトリエに駆けつけたのだが、彼等は灯かりをかざしたフランス窓越しに、貴人の胸が上下していることを確かめることができたのである。
死んでいないのなら、現場保存など考えなくてもいいだろうということで、アトリエの扉は力づくでこじ開けられた。

あまり好ましく思っていない男のために、パンドラは、きびきびと 冥王家の家事管理責任者として為すべきことを為してみせた。
母屋に使用人の一人を走らせ、救急車の手配をさせる。
貴人の呼吸に異常のないことを確認し、救急車が来るまでは彼の身体を不用意に動かさないことを、他の使用人たちに指示する。
そして、氷河には、小声で、
「警察に貴人様の打撲の理由を話さなければならないことになるかもしれません。くれぐれも慎重に振舞ってください」
と、忠告することさえしてくれた。

「警察?」
パンドラの行き届いた忠告――行き届きすぎた忠告――を、氷河は奇妙に感じたのである。
氷河が貴人を殴ったことを、瞬が彼女に知らせるはずはない。
隠しようもない顔の痣の理由は、それができた本当の理由を人に話すことのできない貴人が適当に捏造するに決まっているのだから、それはわざわざ他人に知らせるようなことではないのだ。
そして、氷河が貴人を殴り倒した直後にも、貴人の意識ははっきりしていた。
氷河に殴られた際の打ちどころが悪くて、彼がこんな仕儀になったとは考えられない。
貴人が倒れていた原因と理由は、どう考えても他にあった。

見るからに神経質そうな男だったし、貴人は何か癲癇てんかん系の病でも抱え込んでいたのだろう――と、現に氷河は考えていたのである。
その本当の原因は、医師がはっきりさせてくれるだろう――と。
貴人が病院に運び込まれれば、せいぜい数日の間とはいえ、瞬の身辺から不愉快な男の姿が一つ消えることになるだろう。
そう考えて、氷河は この“事故”を喜ばしく感じてさえいたのである。
――が。
パンドラの予見通り、冥王家に“兵庫県警のもの”と名乗る人物がやってきたのは翌々日のことだった。


「兵庫県警のものです。冥王家で傷害事件が起きたようだと、病院から通報を受けまして――」 
家人に当日の状況を話してほしいという刑事の要請を受け、その日、客間に集まったのは、パンドラと猛人と雄人、そして瞬。
瞬の身が心配で同席しようとしていた氷河は、だが、
「冥王家内のことに他家の者が首を突っ込まないでほしい」
という雄人に客間を追い出されそうになった。
それを遮ってくれたのは、あろうことか兵庫県警からやってきたという刑事の一人。

「氷河! なんでおまえがこんなとこにいるんだよ!」
兵庫県警の刑事は二人やってきていたのだが、そのうちの小柄な方が、まるで旧友に出会ったことを喜ぶ人間の口振りで、氷河の名を口にしたのである。
刑事などに知り合いはない。
が、それは確かにどこかで聞いたことのある声である。
怪訝に思いつつ、氷河が声の主の方に視線を向けると、そこには氷河には既知の二つの顔があった。

「星矢……紫龍……」
「お知り合いなの?」
瞬が不安そうな目をして、氷河に尋ねてくる。
「こっちの刑事と顔馴染みとは、よほど手広く悪事をやらかしていると見える」
瞬には短い微笑を見せ、猛人の嫌味は聞き流して、氷河は改めて二人の刑事たちに向き直った。
「おまえらこそ、なぜこんなところにいるんだ。傷害事件というのは貴人のことか」
「命に別状はないんだが、誰かに殴られたあとがあったし、それに――」
「俺が殴った」

それは、刑事が知り合いでなくても、訊かれる前に知らせておいた方がいいことである。
氷河は紫龍の説明を遮って、自分からその事実を彼等に告げた。
「氷河……!」
瞬が慌てて、氷河と氷河の顔馴染みの刑事の間に割って入ってくる。
そして、瞬は、氷河に背を向けた格好で、兵庫県警からやってきたという刑事たちに訴えた。
「氷河は冥王家には関係のない人です。貴人さんが僕に乱暴しようとしたところを助けてくださったの! 本当です、氷河は何も……」

「乱暴?」
瞬の訴えを聞いた猛人と雄人の顔が にわかに引きつる。
ライバルの抜け駆けの事実を知らされた二人は、そして、揃って忌々しげに舌打ちをした。
もっとも、彼等の舌打ちは、貴人の卑劣に腹を立てたというより、その手・・・があることに気付かずにいた自らの迂闊に立腹したせいのようだったが。

まるで氷河を守ることのできる人間は この世に自分一人しかいないと言わんばかりに必死な目を“刑事”に向けてくる瞬を見て、“兵庫県警から来たもの”たちは困ったように苦笑した。
「心配しなくても、氷河とはそういう知り合いじゃない。俺たちは大学の同窓なんだ」
「氷河の――大学の同窓の方……?」
「そ。東大の経済。こいつが日本一の無能として有名になってくれたおかげで、氷河と同期の俺たちは どこに行っても肩身の狭い思いをさせられるから、この馬鹿には かなりの恨みを抱いてはいるけど、犯罪者と刑事っていう関係じゃあない」

星矢の言う通り、氷河は犯罪者として彼等と知り合いなわけではなかった。
氷河が彼等の登場に驚いたのには別の理由がある。
氷河が日本一の無能として有名になる2年ほど前、彼等は、旧帝大を優秀な成績で終えた期待の新人として、某中央行政機関に国家公務員として入省した――はずだったのだ。
「まさか、俺と同期だという理由で左遷されたわけでは――」
「左遷されるにしても、警察は畑違いだろ。まいったなー」
星矢が、右手の人差し指で鼻の頭をかりかりと掻く。
短い溜め息を洩らし、やがて腹をくくったのか、星矢は彼がここにやってきた訳を氷河たちに白状した。

「兵庫県警の刑事とは仮の姿。俺たちは本当は大蔵省の主税局から内々で派遣されてきた、しがない国家公務員の下っ端だ。お偉いさんが、うまくすれば冥王家の莫大な財産と冥王グループ傘下の企業の資産が ごそっと国庫に転がり込むことになるかもしれないって言い出したもんでさ。で、おまえがやったのか?」
星矢たちが肩身の狭い思いをしているというのが事実だったとしても、エリート中の超エリートたる大蔵官僚(の下っ端)が二人も、そんなことでわざわざこんなところまで出向いてくるものだろうか。
そう疑いかけた氷河は、だが、すぐにその疑いを振り払った。
冥王家と冥王家が支配する企業の総資産は、国会議事堂の建て替え工事をしてもなお 釣りがくるほど莫大なものなのだ。
手に入れられるものなら手に入れたいと、国でも思うに違いなかった。

「殴り倒したのは事実だ。ああ、ついでに蹴りも入れたな」
「そうじゃなくて、貴人に薬をもったのかって話」
「なに?」
「天貴貴人は何者かに薬を盛られたようなんだ」
「薬……?」
てっきり癲癇持ちが自らの手でアトリエの扉に鍵をかけてから、勝手に一人で倒れたものと決めつけていた氷河は、星矢の口から出てきた単語に驚くことになった。
では、これは、事故ではなく“事件”――ということになるのだろうか。

それまで使用人らしく、だが彼女らしくなく 発言を控えていたパンドラが、星矢たちのその言葉を聞いて 初めて口を開く。
「ならば……先代のご遺言はご存じなのでしょう。貴人様に消えてほしいと望む、最も大きな動機をお持ちなのは、そちらのお二人方。この件は、瞬様や氷河様には関係のないことでしょう」
彼女は冷ややかな視線を瞬の二人の夫候補の上に投じ、至って落ち着いた口調で そう言った。
パンドラは、犯人が誰なのかを全く気にしていないように見えた。
ただ、瞬がこんな騒ぎに巻き込まれることだけは避けたい。
彼女の心は、その一点だけに向いているように、氷河の目には見えた。

パンドラの告発に慌てふためいたのは、瞬の二人の夫候補たちである。
彼等はすぐに、パンドラにではなく星矢たちに向かって、パンドラの告発への反駁を始めた。
「冗談じゃない! もし俺が犯人なら、こんなヘマはしない。確実に貴人を殺す方法を考えて、それを過たずに実行するさ」
「絶命の確認も怠らないな。貴人が生きているんじゃ、ライバルを除いたことにはならない」
「まあ、一理ある……か」

つい そう呟いてしまってから、氷河はそんな自分に腹を立てることになった。
が、瞬の二人の夫候補たちの反論通り、彼等がライバルを取り除くのに、毒殺という手段を用いることがあろうとは、氷河にはどうしても思うことができなかったのである。
その手を使うとしたら、それは他ならぬ貴人自身だろう。
二人のライバルを陥れるために貴人が自ら致死量に足りない薬を服毒したのだと言われた方が、氷河はよほど得心できたのである。

猛人と雄人の反駁と氷河の推理を、だが、星矢はあっさり覆してしまった。
「一理も二理もないんだな。天貴貴人の体内から検出されたのは、ありえない濃度の抗アンドロゲン剤。その副作用で、奴は非閉塞性無精子症を発症した。一生治らん」
「非閉塞性無精子症とは――」
聞いたことのない病名に、氷河が僅かに眉根を寄せる。
氷河の質問に答えてくれたのは紫龍だった。
「ひらたく言えば、精子が作れない身体になったということだ。性交はできるが、子供は作れない」

「それはまた――」
猛人と雄人は、貴人の身に降りかかった不幸を笑い飛ばそうとしたようだった。
が、あいにく彼等は そうすることはできなかったのである。
彼等の笑いの機先を制するかのように、星矢が口にした、
「冥王家の先代の遺言では、子を成す能力のない奴は、冥王家の相続争いから脱落することになるんだろ? 今回の天貴貴人の事件で、あんたたちのライバルが一人減ったことになる。この事件でいちばん得をするのは、どう考えても、あんたら二人なんだよな」
――という言葉のせいで。

猛人と雄人が、しんと黙り込む。
パンドラは、とにかく瞬が“事件”と無関係でさえあれば、誰が貴人に危害を加えたのであっても構わないと本気で思っているらしい。
そういう顔をしていた。
瞬はといえば、これが事故でなく 人の手で引き起こされた事件だということに、尋常でない衝撃を受けたようだった。
加害者が誰であれ、その原因は瞬自身なのだから、それも当然のこと。
一度 ぐらりと揺れた身体を、瞬が氷河の胸に傾けてくる。
氷河は、その細い肩の持ち主を力づけるために、瞬の震える肩と身体を抱きとめてやったのである。

無意識の所作なのだろうが――むしろ、無意識の行動だったからこそ――、氷河は瞬が自分を頼ってくれることが嬉しかったのだ。
あからさまに喜びを表現していい場面ではなかったので、一応 深刻な表情の維持には努めたが、それもうまくできているのかどうか、氷河にはわからなかった。
要するに氷河は、パンドラ同様、ライバル同士の内輪揉めになど、毫も興味がなかったのである。


貴人は、氷河の見立て通り、かなり神経質な男だったらしく、精神安定剤を常用、常に持ち歩いていた。
その薬壜の中に抗アンドロゲン剤を濃縮したものが数錠混じっており、貴人はその錠剤を別の薬と区別できずに飲んでしまったらしい。
貴人のアトリエでは、その推察を裏付ける薬の壜が見付かった。

抗アンドロゲン剤が貴人の薬壜にいつどこで混入されたのかを特定することは不可能。
すなわち、貴人が発見された時にアトリエに鍵がかかっていたことも、関係者たちのアリバイを調べることも無意味。
抗アンドロゲン剤は冥王製薬で扱っている薬品。
冥王製薬の専務取締役は天貴貴人の父。
貴人自身も、その研究室の名ばかり室長を勤めていた。
つまり、本来なら凶器(?)を最も容易に入手できる立場の者が被害者になってしまった――ということなのである。
「おかげで、本物の“兵庫県警のもの”たちは困り果ててるらしいぜ」
と、後日 星矢が氷河に知らせてくれた。






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