「瞬。何か景気のいい曲でも弾いて、この通夜みたいな空気をどうにかしろ」 と天猛猛人が言い出したのは、天貴貴人の事件から2日が経った日の昼食時のことだった。 こういう仕儀になって、ライバルたちと顔を合わせることには耐えられなかったのか、貴人は運び込まれた病院を退院した後、冥王家には戻らず、そのまま京都の実家に帰っていた。 冥王家から――瞬の周囲から――不愉快な男が一人消えたことを、氷河は内心では喜んでいたのだが、この件に関して責任を感じているらしい瞬がずっと沈んだままなので、氷河は事件以降、瞬のために笑顔一つ作るのにも気を遣う羽目に陥っていた。 そういうわけで。 氷河同様 本当はライバルの脱落を喜びたい猛人が、冥王家に充満している沈んだ空気に苛立つ気持ちは、氷河にも少しだけなら理解できたのである。 とはいえ、絶対にこの男は音楽を聞く耳など持ち合わせていないと断言できる人物の口から出てきた その言葉に、氷河は意外の念を抱かないわけにはいかなかった。 「景気のいい曲?」 「ヴァイオリンですよ。瞬様がお弾きになるんです。当家には、ストラディバリがその円熟期に作ったといわれるストラディバリウスが3梃ほどあって、それを遊ばせておくのも何だからと、先代が瞬様に教師をおつけになって――」 食後のお茶を配っていたパンドラが、説明を始めると突然、 「へたです!」 と、瞬が叫ぶように言って、パンドラの話を遮る。 それは、氷河が数日振りに聞いた、瞬の力のこもった声だった。 「と……とても氷河に聞かせられるようなものじゃありません」 自分の大きな声に恥じ入ったように、瞬がうっすらと頬を染めて俯く。 氷河は、その様子を見て、つい微笑を浮かべてしまったのだった。 そして、それがどういうものであれ、瞬が感情を取り戻してくれたことを嬉しく思った。 「あら、そんなことありませんわよ。ヴァイオリニストにあるまじき細腕で、よくあれだけの演奏ができるものだと、私などはいつも感心しておりますわ」 「それは――ヴァイオリンがいいものだから……。あれで弾いたら、誰だって――」 瞬は謙遜の美徳を備えているのか、あるいは事実を告げているだけなのか。 その判断が難しい作業であることも手伝って、氷河は、大いに瞬のヴァイオリンの腕前に興味を持ったのである。 ぜひ聞きたいと言おうとしたところに、猛人の品のない声が割り込んでくる。 「瞬の腕前がどの程度のものなのかは知らないが、あれ一梃でロールスロイスのリムジンが20台は買えるほどのものだそうじゃないか。弾かないで放っておくと朽廃してしまうんじゃないのか。俺のものになる財産の価値の維持に努めるのは、おまえの義務だろう」 どう見ても、猛人は貴人の身に降りかかった不幸に同情していない。 そして、彼は、音楽が全くわかっていない。 氷河は、勝手に瞬の夫になったつもりでいる猛人の その口振りにむっとしたのである。 同時に、この冥王家に価値ある動産は他にいくらでもあるだろうに、この男はなぜ よりにもよって楽器に執着しているのかと訝ることになった。 「猛人様は、当家の音楽室がお気に入りなんです。何でも以前ギリシャにご旅行になった際、当家に1715年もののストラディバリウスがあることを知っていた当地の高名なヴァイオリニストに、家屋敷を売ってお金を作るから ぜひ譲ってほしいと頼み込まれたことがあって、その価値を認識することになったらしいんですの。ヴァイオリンとハープの音の区別もできない耳の持ち主のくせに……!」 パンドラが、氷河と瞬にだけ聞こえるように、ひそりと囁く。 それから彼女は声のボリュームを通常モードに戻して、 「結構なアイデアですこと。私も、瞬様のヴァイオリンを久し振りに拝聴したいですわ」 と告げた。 パンドラのその一声で、当人の申告では“とても氷河に聞かせられるようなものではない”という瞬のヴァイオリン演奏が為されることが決定したのである。 「あの……じゃあ、あとでちょっとだけ……」 瞬はあまり気が乗らないでいるようだったが、氷河に『ぜひ』と言われると、困ったような顔をして、それでも小さく頷いたのだった。 冥王家にヴァイオリンの音が響き始めたのは、それから1時間ほどが経った頃。 てっきり音楽室に召集がかかるものと思っていた氷河は、前触れもなく突然始まった楽の音に 少々驚くことになったのである。 氷河と共に休憩室にいたパンドラも同様のようだった。 が、先刻の様子から、瞬は聴衆の目のあるところでの演奏を恥ずかしがっているのだろうと、すぐに彼等は得心したのである。 曲は、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク。 ヴァイオリンに限らず楽器演奏では定番の、軽快で明るい曲である。 直接聞いているわけではないので安易に評価はできなかったが、それは、素人が安心して聞いていられるレベルには達した巧みな演奏だった。 「やはり謙遜だったか。上手い」 「そうでしょう」 と、得意げに言いかけたパンドラが、ふと首がかしげる。 ほぼ同じタイミングで、氷河もまた瞬の演奏に不審の念を抱くことになった。 氷河は瞬の演奏を聞くのは、これが初めてだった。 だが、氷河には、それが瞬の――少なくとも、今の瞬の――紡ぎだす音だとは到底思うことができなかったのだ。 何の迷いもなくミスもなく、ひたすら明るく軽快に響く音。 今の瞬に こんな演奏ができるはずがない。 氷河は、掛けていたソファから立ち上がった。 「音楽室はどこだ」 「西の棟の端にある部屋です」 強い胸騒ぎに襲われながら、氷河は休憩室を飛び出した。 |