「こんな手があったとはな。俺は貴人と違って紳士なので思いつきもしなかった。ああ、騒いでも無駄だ、大人しくしろ」 氷河が音楽室に飛び込んだ時、瞬の身体は既に床に倒されてしまっていた。 そして、瞬は猛人に組み敷かれていた。 楽器棚のヴァイオリンは取り出された気配もなく、一般の家庭では まずお目にかかれないような豪勢な音響装置のプレイヤーにセットされたレコードが、室内に軽快な曲を響かせている。 音楽を楽しむ耳を持たない猛人は、これで音楽を楽しむことを知っている人間の耳をごまかすことができると、浅はかにも考えたらしい。 ヴァイオリンの音が流れている限り、瞬の身に危険が迫っていることに家人が気付くことはないと、彼は踏んだのだろう。 だが、猛人にとっては不幸なことに、冥王家にいる猛人以外の人間たちは楽の音を楽しむ耳を持っていたのだ。 「貴様っ!」 氷河に殴り飛ばされた猛人の身体がヴァイオリンが並べられている楽器棚にぶつかり、その衝撃で棚の中のヴァイオリンケースが音を立てて大きく揺れる。 猛人は、我が身より、瞬の身より、高名なヴァイオリニストが家屋敷を売り払ってでも手に入れたいと望むほどの価値を持つ楽器の安否の方が気になったらしい。 感じた痛みを表情に出す前に、彼はヴァイオリンが収められている棚の方に その視線を走らせた。 その隙に、氷河は瞬の身体を自分の腕の中に収めることができたのである。 レコードの演奏が始まってから10分ほど。 瞬の抵抗に合って、猛人の だが、だからといって、瞬が感じた恐怖までもが軽度のものだったはずがない。 氷河に身体を引き寄せられた瞬は、そのまま氷河の胸にしがみつき声をあげ泣き出してしまった。 「氷河……! 氷河……氷河……!」 氷河に1分ほど遅れて音楽室に駆けつけたパンドラは、泣きながら氷河にしがみついている瞬と、床に尻をつき楽器棚にもたれかかっている猛人の様子を見て、すぐにすべてを察したらしい。 猛人と違って、彼女には、ヴァイオリンより彼女の小さな主人の方が はるかに大切なものだったのだろう。 パンドラは棚のヴァイオリンになど目もくれず、ほとんど飛びかかるような勢いで、瞬の側に駆け寄ってきた。 「瞬様! 瞬様、ご無事ですか!」 まともに口がきけそうにない瞬に代わって、氷河が、 「無事だ」 と答えると、パンドラは長い息を洩らし、両の肩から大きく力を抜いた。 「よかった……。瞬様の身に何かあったら、私は一輝様に何と言ってお詫びをすればいいのか……」 氷河に支えられて立ち上がった瞬に痛ましげな目を向け、パンドラが呟く。 そうしてから彼女は、猛人に、瞬に向けていたものとは別人のそれとしか思えないほど冷たく険しい視線を投げつけた。 「よくもこのようなおぞましいこと! おまえも天貴貴人と同じ目に合ってしまえばいいのよ、この下種!」 そう言いたくなるパンドラの気持ちは痛いほどわかるのだが、できればそんな激しい雑言を瞬のいるところでは口にしないでほしい――と、氷河は思ったのである。 パンドラの呪詛のような声と言葉に驚いたのか、氷河の腕の中で、瞬がびくりと身体を震わせる。 氷河は、瞬を抱きしめていた腕に更に力を込めた。 氷河は――おそらく瞬もパンドラも――、その時には考えてもいなかったのである。 その日のうちに、パンドラの呪詛の言葉が現実のものになるなどということは。 音楽室で倒れている猛人が見付かったのは、その日、深更になってからだった。 あの修羅場のあと、あろうことか猛人は、 それが彼の不幸だった。 彼が手にとったヴァイオリンケースの鍵のバネが壊れていたらしく――壊されていたらしく――、彼はそのバネで右手の人差し指に怪我をした。 猛人の指の皮を突き破ったバネには限界まで濃縮された例の薬品が塗られており、それは猛人の傷口から速やかに彼の体内に吸収されたのである。 その結果、猛人の身体には、天貴貴人の身に起きたものと全く同じ変化が生じたのだった。 |