「――」 自分が何を言われたのか、氷河は咄嗟に理解することができなかった。 言葉の意味だけを何とか理解したあとも、信じることができなかった。 この花のように可憐な風情の持ち主が男子だというのなら、日本国に生存している女たちの9割9分9厘が男たりえるだろうと、氷河はそんなことさえ考えた。 言葉を失っている氷河を、瞬が、どんな少女よりも美しい瞳で、切なげに見あげてくる。 「このことを知っているのは、亡くなった母と、僕をとりあげた産婆さんだけでした。その産婆さんは秘密を守ったまま、母より先に亡くなった。兄もパンドラも知らない。父も知らなかった」 「なぜ、そんなことを――」 瞬の母はなぜ、そんな嘘をついたのか。 氷河には、瞬の母の意図がわからなかった。 逆ならわかるのである。 女子を男子と偽ったのなら、それは氷河にも理解できないことではなかった。 法律の上では男女平等が謳われているこの国で、現実は、だが、そうではない。 戦前戦中を通して維持され続けていた“男子であることの優越”が、この国には今も確固として存在する。 家督の相続という一事に限ってみても、男子の優越は社会が認め守っているルールだった。 だからこそ、沙織が城戸財閥総帥の地位を継いだ時、それは日本国中津々浦々にまで伝えられる大ニュースになったのである。 沙織が男子であったなら、世間はあそこまで大きな騒ぎを起こすことはなかったし、星矢や紫龍たちも氷河と同期だったせいで肩身の狭い思いをすることはなかったはずだった。 「それは……」 氷河に問われた瞬は、そうして、すべてを諦めた人間のように覇気のない声で、彼と彼の母の物語を物語り始めた。 「僕の母は父の後妻で――いわゆる“いい家”の箱入り娘でした。それが恋も知らないうちに、父に望まれて この家に嫁いできた。前の奥さんとの間に子のなかった父は、兄が生まれた時、とても喜んだのだそうです。それまで形ばかりの妻として遇されていた母は、兄を産んだ時初めて父に優しい言葉をかけてもらえた。嫁いできてから父を愛するようになっていた母は、父の優しさをとても喜んで――でも、その喜びは次第に疑いに変わっていったんです。父が自分に優しい言葉をかけてくれたのは、跡継ぎを産むという務めを果たした道具にかけた言葉にすぎなかったんじゃないか――って。冥王家の男尊女卑は徹底したものでしたから。当主の正妻であるにもかかわらず、母はそれまで父と同じテーブルで食事をとることさえ禁じられていたんです。正餐のテーブルに着くことができるのは男性だけだった……」 冥王家先代の遺言の内容を義兄に説明しながら、沙織が『女を何だと思っているのか』と怒り狂っていたことを思い出し、氷河は低く呻いた。 あの遺言状を平常心で作成してのけた男なら、そんな非道なことも平気でしかねない。――と思う。 「それで僕を産んだ時、母は、生まれた子が家を継ぐ権利も持たず、家の繁栄にも寄与できない娘でも、父は同じように喜び優しくしてくれるのかと――多分、最初はちょっとだけ父を試すつもりで、生まれたのは娘だったと嘘をついた。父は、母が産んだ第二子が娘だったと知ると、優しい言葉をかけるどころか、産褥の床についていた母の許にやってくることもせず、子の顔を見ることもしなかったそうです」 そして、瞬の母は絶望し、真実を夫に告げる機会を失ってしまった――のだろう。 愛する男に男子を産む道具扱いされた悲しさや苦しみ、本当のことを知らせてなるものかという憎しみさえ、彼女の中にはあったのかもしれない。 何より悲しいのは、それも愛だということだった。 それがわかるからこそ、瞬は、これまでずっと母の嘘に従ってきたのだろう。 母が亡くなってからもなお、瞬は母の嘘を守り続けた。 愛した男に人間として愛し返してもらえなかった不幸な女性を、息子から息子としての権利を奪い、本来の性で生きることを禁じた非道な母を、それでも瞬は心から愛していたのだ。 「おまえの気持ちも、おまえの母の気持ちもわかる……わからないではない。だが今は――それを公表すれば問題は解決しないか? そうすれば、おまえの疑いは晴れるだろう。そして、俺と一緒にこの家を出てくれ」 亡くなってしまった不幸な女性のためにも、瞬は幸福にならなければならない。 それは、その思いが氷河に言わせた言葉だった。 涙で潤んだ瞳を困惑したように揺らし、瞬が氷河を見詰めてくる。 「あの……氷河……。だから、僕は男子なんです」 「今になって、そんなことを言われても困る」 「ご……ごめんなさい」 「俺はおまえにすっかり惚れてしまったあとだ」 その思いは氷河の胸に深く根づき、もはやどんな事実にも どんな力にも消してしまえないものになってしまっていた。 その強い思いに命じられ、氷河は瞬の身体をその手で抱きしめたのである。 「氷河……でも、僕、本当に――」 少しだけ身じろぐことはしたが、瞬は氷河の腕と胸を遠ざけようとはしなかった。 「俺もおまえに好かれていると思っていたんだが、それはうぬぼれだったか」 「それは……それは事実ですけど……」 そう告白してから、瞬が、苦しげに その頬を氷河の胸に押しつけてくる。 言葉はためらいでできているのに、瞬の所作はそうではなかった。 おかげで氷河は、瞬が――瞬も――それを望んでくれていたのだと、苦しいほどに望んでくれていたのだと確信することができたのである。 「でも、どうしてなの……。どうして僕はこんなに氷河が好きになってしまったの……。僕は自分が男子だってことを忘れたことなんか、一日だってなかったのに――」 「きっと俺が日本一無能な男だからだ」 苦しげに、悲しげに、だが確かに喜びの感情をたたえて 日本一無能な男の胸の中にいる花に、氷河はそう言って笑ってみせた。 「おまえも俺を好きでいてくれるのなら、何も問題はない。男子だから夫を迎えることはできないと言って、この家を出ればいい」 「それは……きっと、僕たちにもっと大きな問題を運んでくるやり方です。父が自分の血を引く男子にこの家を継がせたがっていたことは、皆が知っている。僕が男子だと知れたら、皆は、未婚のままでも構わないから相続の意思を表明しろと迫って、僕をなおさら この家に縛りつけようとするでしょう。冥王家に関わる者や冥王グループ傘下の企業の重役たちは、この家と会社の財を国に奪われることを何より恐れているんです」 「む……」 それは大いにありえそうなことだった。 普通の人間や無能でない人間たちは、欲心のない恋人たちの幸福より、自分たちの利益を守ろうとするに違いない。 「でも僕は氷河と一緒に行きたい。氷河と一緒に行きたい……!」 悲しげに苦しげに身悶えするように切ない瞬の声。 氷河は、今は、瞬の心を知ることができただけでよしとするしかなかった。 ともかく瞬は今、自分の腕の中にいるのだから――と。 いずれにせよ、瞬が男子なら、あの三人の誰が子の成せない身体になろうと、そんなことはすべて無意味だったということになる。 もともと瞬は従兄弟たちとの間に子を成す能力がなかったのだ。 瞬が男子となれば、冥王家先代の遺言の大前提が崩れる。 彼の遺言を法的に無効にすることも不可能なことではないかもしれない──と、氷河は思った。 そもそも それは実行不可能な遺言だったのだ。 女子が男子と偽っていたのなら、財産目当てと思われることもあるかもしれないが、男子が女子の振りをしていたことが罪に問われることはないだろう。 税務署は相続税さえ払われれば文句はないだろうし、国が原告となって瞬を訴えることは なおさらありえない。 何よりも、貴人、猛人、雄人に関する事件は、瞬が男子であることを知らない者の犯行だということになる。 瞬は犯人ではないのだ。 この先、自分と瞬が幸福になるためには多くの面倒事が生じることになるだろうが、瞬がこの連続傷害事件の犯人でないのなら、少なくとも法は二人の恋を邪魔することはできない。 貴人の事件以降、まさか もしやと氷河の胸中でくすぶっていた懸念は、今では綺麗に払拭されていた。 これでもう、自分は瞬を疑わなくて済む。 その事実に安堵して、氷河は瞬を抱きしめる腕に力を込めた。 「兄さんが帰ってきてくれたらいいのに……」 氷河の胸の中で、瞬が小さく呟いたようだった。 |