翌朝 氷河が目覚めた時、彼の隣りに瞬の姿はなかった。
氷河はその事実を認めると少しがっかりし、だが、それも致し方のないことと自分に言い聞かせた。
昨夜の奔放すぎた自身の姿が恥ずかしくて、瞬は恋人の許から逃げ出さずにはいられなかったのだろう。
他に、瞬が あれほど求めていた恋人の側を自ら離れていく理由はない。
氷河はそう思い、決めつけ、ベッドから起き上がったのである。
自分の今日の最初の仕事は、瞬を探し出すという楽しい遊戯なのだと信じて。

冥王家の広い庭の ほぼ中央で、氷河は瞬の姿を見付けた。
身仕舞いを整えて朝の庭に佇んでいる瞬の姿には、昨夜の扇情的な振舞いの名残りは かけらほどにも見い出せない。
瞬のそんな豹変すらも、氷河には好ましく感じられることだった。

やがて、瞬が氷河の姿に気付き――気付かれたことに気付いた氷河は瞬に微笑みかけようとしたのである。
だが、瞬はそれを残酷に遮った。
事もあろうに、
「本当は――貴人さんたちをあんなふうにしたのは僕です」
という告白で。
「瞬……何を言って……」

氷河は最初、それを、内罰の傾向のある瞬が、事件の遠因となった自分に責任を感じているのだと、それゆえの言葉なのだと思った。
だが、瞬が彼等に罪悪感を抱く必要があるだろうか。
『あるはずがない』というのが、氷河の見解にして答えだった。
瞬が、そんな氷河を悲しげに見上げてくる。

「犯人は僕です。僕が直接 彼等に手を下した。母の無念―― 父に子を産む道具としてしか見てもらえなかった母の 男たちへの復讐心に、僕は囚われていたんです、多分。父は……僕の計画に気付いていたのかもしれません。だから、パンドラにあんなものを残したのだと思う。本当は、事が済んだら自首するつもりでした。でも、僕は氷河に会ってしまった……。氷河は、僕が道具としての務めを果たせなくてもいいと言ってくれた。僕は、氷河の側を離れたくなかった――」
「瞬……」
瞬の告白を信じることが、氷河にできただろうか。
彼の前に立つ瞬の瞳は清らかに澄み、そして、瞬は氷河にとって もはや離れて生きることの不可能な健気で愛らしい恋人だった。

「氷河はどうしますか。黙ってる? それとも僕を警察に突き出す?」
どちらもできない――と、氷河は思った。
氷河は、犯罪の事実を知りながら黙っていることができるほど、社会と人間が定めたルールから逸脱できる男ではなかったし、熱烈に恋する恋人を警察に突き出すことができるほど、社会と人間が定めたルールに縛られている男でもなかったのだ。

「人を殺したわけじゃない。罪を償う時間は、それほど長くは――」
だから、氷河が口にしたその言葉は、ただの仮定文だった。
その時間が短いものであったとしても、瞬と離れては生きていられない男が、その長い・・時間に耐えられるとは、氷河には到底思えなかったのだ。

「警察に捕まりたくなんかないの。そんなみっともないことはしたくない。そんな僕を氷河に見られたくない。それに、今の僕は、氷河と離れ離れにさせられてしまったら、きっとすぐに死んでしまう……」
「瞬……」
それは俺も同じだと叫ぼうとした時、氷河は瞬がその手にナイフを持っていることに気付いた。
その冷たい輝きが、瞬は今ここで死ぬつもりでいるのだということを、氷河に知らせてくる。
家を自分の血で汚したくなくて、だから、瞬はこんなところにいるのだと。

「馬鹿げている。おまえがなぜ、あんな下種な男たちのために……!」
それが氷河の本音だった。
瞬があんな男たちの犠牲になる必要がどこにあるというのだ――というのが。
瞬が、力なく首を左右に振る。
「でも、僕は彼等にひどいことをしたから……。僕は最初から兄さんみたいに冥王家を出ればよかったのかもしれない。でも、一人で家を出るのは恐かったし、氷河に出会えた時にはもう、僕の復讐のお膳立ては済んでいて、いつ事件が起こるかわからない状態になっていたの」

不幸な女性の復讐――。
その復讐の犠牲になるのに、あの三人は最もふさわしい男たちだった。
あの男たちは瞬を暴力で汚そうとした。
彼等は、瞬に心があることを無視した男たちなのだ。
それでも瞬は、彼等に対して罪の意識を覚えているらしい。
だが、刑務所など、瞬にはあまりにも似つかわしくない場所である。

「一緒に死ぬか」
不思議な魔法にでもかけられたように、氷河は、自分でも思いがけない言葉を口にしてしまっていた。
何か妖しい力に操られてでもいるかのように。
二人で生きることができないというのなら、二人で死ぬしかない。
それは、子供にでもわかる簡単な理屈である。
氷河が今 心から求めていることは、自分が瞬と共に在ることだけだったのだ。

「それはだめ」
瞬が悲しげに微笑する。
「おまえから離れられないのは俺も同じなんだから、仕方がない」
氷河も、瞬に微笑を返した。
それで、瞬は、氷河の決意を認め受け入れてくれたらしい。

「――ありがとう。ごめんなさい……」
ナイフを持った小さな手に、瞬が氷河の手を添える。
そうして瞬は、そのナイフを自分の首に押し当てた。
「氷河、大好き。氷河、ごめんなさい……」
このまま この手に力を入れろと、瞬は言うのだろうか。
本当に自分たちにはこの道しかないのだろうか。
ナイフの刃が押し当てられている瞬の首のあまりの細さに、氷河はどうしても逡巡を覚えずにはいられなかった。

その時。
氷河が一度は為した決意に逡巡を覚えた、まさにその時だった。
「瞬! 馬鹿な真似はやめろっ!」
冥王家の庭園に、大音声を響かせて、あまりにも怪しすぎる風体をした一人の男が飛び込んできたのは。






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