「兄さん! やっぱり来てくれたんだねっ!」
それまで暗く沈んでいた瞬の表情が、途端にぱっと明るく輝く。
「瞬?」
「こ……これがおまえの兄?」

瞬の兄らしい男の頓狂な声にも、氷河の疑念にも、瞬は答えを返すことをしなかった。
というより、答える前に、瞬は、冥王家の庭に兄にも負けぬ大声を響かせていたのである。
「みんな! 今だよ! 兄さんを逃がさないでっ!」
それを合図に、庭の四方八方からわらわらと冥王家の使用人たちが湧いて出てくる。
彼等はそれまで庭の建物や樹木の陰に隠れていたものらしい。
「一輝様!」
「一輝様だぞ! 冥王家存亡の危機を救える ただ一人のお方!」
「死んでも取り逃がすなーっ!」

「な……何事だっ」
氷河と瞬の兄は、ほとんど同じタイミングで同じ台詞を吐いていた。
どこからともなく湧いて出た使用人たちが氷河の脇を通り過ぎ、瞬の兄だという男に怒涛の勢いで襲いかかっていく。
怒涛の余波の巻き添えを食うのを避けるために、氷河は脇に飛びすさることになったのである。
そんな氷河の前に、瞬の兄に襲いかかった者たち以上の勢いで駆け寄ってきたのは瞬だった。
瞬の瞳は、今は明るく輝いていた。

「氷河! 嘘ついてごめんなさい! でも、僕、これで、氷河とこの家を出ていけるよ!」
「な……なに?」
「僕があの事件の犯人だっていうのは嘘だよ。兄さんをおびき出すための嘘」
「う……嘘?」
では、やはり一連の事件の犯人は冥王家先代だったのだろうか。
何が起こったのか よくわからないでいる氷河に、瞬はもう一度、
「ごめんなさい」
と謝ってきた。
「僕は、どうしても氷河と離れたくなかったの。どうしても氷河と幸せになりたかった……」

「あ……いや、それは俺も同じだが――」
正直、いったい何がどうなっているのか、氷河には未だによくわかっていなかったのである。
だが、瞬が恋人に嘘をつき、その嘘の目的が『氷河と幸せになること』だったというのなら、氷河には瞬を責めることなど、到底できることではなかった。

見れば、瞬の兄らしき男は、二十人ほどの人間たちの体重に押し潰されかけている。
瞬の兄を取り押さえている者たちの中には、冥王家の家人だけでなく、背広を着た冥王グループ傘下企業の重役たちの姿も二、三 混じっていた。
その上、あのパンドラまでが黒いドレスの裾を振り乱して、瞬の兄を捻じ伏せようとしている。
それらの者たちに捕まってもがいている兄を見て、瞬は溜め息混じりに呟いた。
「兄さんて、僕がほんとに窮地に陥らないと来てくれないの。これまでは、僕がピンチに陥るたび氷河が助けてくれてたから、出てくる機会がなかったんだと思う。だから、兄さんに出てきてもらうためには、どうしても新しいエサを撒かなきゃならなくて――」
「……」
そうして目ざとくエサを見付けるなり、後先考えずに飛び出てくるなど、まるでゴキブ○のような男だと、(失礼ながら)氷河は思ったのである。

「瞬、兄を騙したのかっ!」
使用人たちに押さえつけられた瞬の兄が、瞬を非難するように悲痛な声を響かせてくる。
これでめでたく この国有数の富豪の財産を継げることになったというのに、瞬の兄は少しも嬉しそうではなかった。
瞬の兄の気持ちは、氷河には痛いほど――よくわかった。
だが、氷河は――瞬に恋をしている氷河は――是が非でも、瞬の兄にこの家を継いでもらいたかったのである。
そして、冥王家という呪縛から、瞬を解放してほしかった。
瞬はもう十分すぎるほどに、その細い肩に課せられた つらい責任を果たしてきたのだから。

「この家を継ぐ権利と義務は、第一に兄さんにあるんです。それを僕の一存で処理なんかできない。冥王家の財産を相続したくないのは僕だって同じです。でも、親族や会社の偉い人たちに逆らう勇気は僕にはなかったし、この家を出ると、兄さんが帰ってきてくれた時に会えないし……」
だが、もう、会えたのだ。
生死不明とも言われていた兄が、無事に、元気に(多くの人間たちに押し潰されて)生きている姿を、ついに今日、瞬は確かめることができたのだ。
「相続するにしても、相続放棄するにしても、それは兄さんが決めてください」
あとは、兄に兄の責任を果たしてもらうだけだった。

パンドラが、一輝の胸にしがみついてる。
あの権高い女がよくここまで なりふり構わずにと 氷河も呆れるほど――パンドラは必死の形相を呈していた。
「パンドラ、ええい、放せ!」
「一輝様! いい加減に観念してください!」
兄とパンドラの(あまり優雅とは言い難い)様子に、瞬が微笑を向ける。
「掴まえて、逃がさないでね」
瞬がパンドラにそう言うと、パンドラは、
「はい!」
と、やたらに元気で明るい返事を返してきた。
彼女はどうやら瞬の兄に気があるらしい。
いっそこのまま押し倒してやろうかというような勢いで、彼女は瞬の兄にのしかかっていた。

その態勢のまま、パンドラが氷河に大声で訴えてくる。
「瞬様の嘘を責めないでやってくださいまし。瞬様は、氷河様を騙すことなどできないと、何度も私におっしゃったのです。でも、私が、瞬様と一緒に死ぬ決意をしてくれるほどの男でないなら、瞬様を任せることはできないと言い張ったのです」
「……」
それで、氷河は、どうやらパンドラに及第点をつけてもらえたものらしい。
氷河にとっても、それは非常にありがたいことだった――のだが。
氷河はどうにも自分が冥王家の女たち・・・に置いてきぼりを食わされていた感を拭い去ることができなかったのである。

「頑張って。僕はこの家を出るから」
「はいっ。お元気で、お幸せになってください」
「もちろんだよ」
母とも姉とも慕っていた人の許しを得た瞬は、嬉しそうにその両手を氷河の右腕に絡めてきた。
そして、母とも姉とも慕っていた人と兄に背を向ける。
瞬は、自分が進む先には自分が選び掴んだ幸福があるのだと信じきっているような足取りで、前に向かって歩き始めた。

「瞬……」
二十人は下らない人間の下敷きになっている瞬の兄のありさま。
それが二人の恋の成就のための災難なのだと思うと、氷河はさすがに気が咎めた。
「瞬、いいのか」
「パンドラは、ずっと兄さんのことが好きだったの」
「いや、そういうことではなく、おまえの兄――」
「兄さんは、僕と違って、言いたいことはちゃんと言うし、他人の目なんか気にしないで行動もするし――」

それは実は瞬も同じなのではないかと、氷河は思わず呟いてしまいそうになったのである。
かろうじて自制心が働き、氷河はその疑惑を言葉にはせずに済んだのだが、氷河の心を瞬は明敏に読み取ったようだった。
「氷河に会う前の僕だったら、こんなことはできなかった。そんな勇気も持てなかった。氷河に会えたから、僕は――」
「瞬……」

それはこの はしたないほど大胆な行動の言い訳なのか、可愛らしい恋の告白なのか。
いずれにしても、瞬の勇ましい決断と果敢な行動は、氷河には非常に好ましく感じられるものだったのだ。
氷河は瞬を責めるつもりは全くなかったのである。
明日から自分は瞬の尻に敷かれる男になり下がるかもしれないという不安は、彼の胸の内に ないでもなかったのだが。






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