桜前線は関東を通り過ぎ、のんびりと日本国を北上中。 城戸邸の庭の現在の主役は、薄桃色のボタンと芍薬。 陽光は無言で大気を暖め、地表近くでは ゆらゆらと陽炎が立っている。 まるで世界全体が巨大な揺り籠の中にあるような、平和で静かで やわらかな春の午後。 オーロラ姫と彼女の城の者たちが百年の眠りに就いていったのは こんな日だったに違いないと思いながら、瞬は城戸邸の廊下を歩いていたのである。 庭に出て今を盛りと咲き誇る春の花たちを眺めて過ごすつもりだったのだが、一人で花見などしていたら花の中で眠ってしまうのではないかと、そんなことを考えながら。 世界は平和で静かだった。 あまりに静かで、世界中の人々が死滅してしまったのではないかという錯覚に囚われてしまいそうなほど。 ゆらゆらと立ちのぼる陽炎以外に動いているものもない。 戦いに慣れ親しんだ瞬の心と五感は、この静寂と平穏を不気味に感じ始めていた。 慣れぬ平穏と静寂に、瞬は恐怖をさえ覚え始めていたのである。 だから、瞬は、突然廊下に響いてきた、 「沙織さん、なんでだよ!」 という星矢の声を聞いた時、自分がただ一人きりで世界に取り残されたのではないことを知って、安堵の念すら覚えたのである。 しかし、続く星矢の言葉は、瞬の心を安んじるどころか、今 瞬の周りにある世界の平和を根底から覆してしまいかねないものだった。 「じゃあ、なにか? 沙織さんは、せっかく授かった命を摘み取れって言うのか !? それが人類の幸福と地上の平和を願う女神の言うことかよ !? 沙織さんには血も涙もないのか? アテナ、横暴! いや、残酷だぞ!」 星矢の怒声は、沙織の執務室のドアの向こうから聞こえてくる。 瞬はぎょっとして、そのドアの前で棒立ちになった。 女神アテナをこんなふうに怒鳴り責めることのできる人間は、この世界には確かに星矢くらいしかいないだろう。 だから瞬は、高貴な女神を怒鳴りつけているのが星矢だということに驚いたのではない。 瞬は、星矢とアテナが交わしている会話の内容にこそ驚いたのである。 「ええ、ええ、確かにせっかく授かった貴い命ね。でも、その命をあなたに育てられるわけがないでしょう。飽きっぽくて、落ち着きがなくて、何でも場当たり的で、面倒なことが大嫌いなあなたに! 命の大切さを私に説くくらいなら、その前にまずあなた自身が、命を育てることの難しさを知るべきだわ。あなたには無理です。へたに命を永らえて、途中で その命の世話を放棄する方がよほど残酷な行為よ。生まれたばかりの今のうちに摘み取られた方が、その命にもまだ救いがあるというものだわ」 「……」 二人の会話を、結果的に盗み聞くことになった瞬は、暖かく平穏な春の中で思い切り青ざめてしまったのである。 「せっかく授かった命って……」 考えたことが声に出てしまっていることに気付いて、瞬は慌てて唇を引き結んだ。 『せっかく授かった命』とは、いったい何のことなのか。 命の価値を誰よりもよく知っているはずの沙織が、『生まれたばかりの今のうちに摘み取られた方が、まだ救いがある』と言っている命とは、いったい。 まさか、星矢が、どこぞの女の子との間に子供を成してしまったとでもいうのだろうか――? まさかと思う一方で、星矢は意外に女の子にもてていることを思い出し、それはありえないことではない(かもしれない)と、瞬は思い直すことになった。 命は、もちろん大切なものである。 命があって初めて、人は己れの人生を歩き始めることができる。 人は、命があるからこそ生きている。 生きているから命があるという考えは、本末転倒な考え方なのだ。 しかし、いくら何でも星矢は、人の親になるにはあまりに若すぎるだろう。 星矢自身が成長途上にあるというのに、これではまさにコドモがコドモを育てるという最悪のパターン。 いつも生気と活力に満ちていると言えば聞こえはいいが、星矢は、肉体のコンディションの起伏も感情の起伏も尋常でなく激しい。 星矢は、言うなれば、子供ならではの不安定さに満ちている人間なのだ。 落ち着きなく不安定な親に育てられた子供は、いつも心の内に不安を抱えた人間に育つだろう。 それは子供にとって この上もない不幸である。 だが、“せっかく授かった命”を、その命の持ち主でない者が消し去ることなど、瞬には(それが誰のどんな命であれ)思いもよらないことだった。 とはいえ、人の命は、芥川の『河童』のそれとは違うのだ。 世界に生まれ出る前に、「生まれてきたいかどうか」を確かめることはできない。 その命の持ち主に、生きる意思の有無を確かめることはできないのだ。 「わからずや! 沙織さんが何て言ったって、俺はあの子たちを立派に育ててみせるからな!」 星矢の決意は固いらしい。 瞬が呆然と立ち尽くしているドアの向こうで、星矢が沙織にきっぱりと宣言するのが聞こえた。 だが『あの子 星矢が授かった命というのは、双子か何かなのだろうか。 ――と、そこまで考えて、瞬はほうっと安堵の息を洩らしたのである。 星矢の言っている“命”とは、人間のそれではなく、おそらく犬か猫のことなのだ。 それならば、その命を守り育てることは、星矢にもできないことではない――かもしれない。 瞬の心は、少し軽くなった。 星矢とその仲間たちが協力し合えばきっと大丈夫。そう瞬は思ったのだ。 が、それは瞬の希望的観測にすぎなかった。 星矢の言う“せっかく授かった命”は、犬や猫のそれではなかったのだ。 「星矢! あなたが立派に育てあげてみせると言っている命はね、その気になれば自分でエサを調達することもできる犬猫とは訳が違うのよ! あなたが何から何まで世話してやらなければならないものなのよ。できるわけがないわ!」 「できるかできないか、やってみなきゃわからないだろ!」 もちろん、それはそうである。 だが、やってみて駄目だとわかったら、星矢はどうするつもりなのだろう。 瞬が泣きたい思いで聞いた その言葉は、どうやら星矢の捨て台詞だったらしい。 瞬の目の前で、沙織の執務室のドアが、まるで蹴り飛ばされたような音を立てて開く。 そして、大問題の人物ペガサス星矢が廊下に飛び出てきた。 「瞬、聞いてたのか……」 その場に青ざめて立っている瞬の姿を認め、星矢が瞬に尋ねてくる。 彼の瞳や口許には、まだ怒りの気配が残っていた。 星矢は、沙織の許可や協力を得ることを既に断念したらしい。 代わりに彼は、仲間同士の友情を信じきっている表情で、瞬に訴えてきた。 「瞬。おまえは俺の味方だよな! あいつらを殺せなんて言わないよな」 「星矢、でも……」 星矢の気持ちはわかる。 “せっかく授かった命”を消し去ることは決してできない――そう思い、そう信じる星矢の気持ちはわかるのである。 それは、人として、この世界に生きている“命あるもの”が抱く、ごく自然な望みだとも、瞬は思った。 だが――。 「おまえがいつも『人を傷付けるのは嫌いだ』って言ってるのは、命が大事なものだって知ってるからだよな? 命は守らなきゃならないものだよな?」 「それは、あの……」 「沙織さんは、俺には育てられっこないって最初から決めつけて、俺に あいつらを殺せって言うんだ。でも俺は意地でもあいつらを守ってやる! 瞬、おまえも協力してくれ!」 「星矢、でも……」 瞬は本当に泣いてしまいたくなった。 瞳の奥が熱くなっていくのがわかる。 瞬は、子供は好きだった。 幼い子供の姿を見ているだけで、この子たちの希望を守らなければと思い、自分自身の希望と心も強く大きくなるような気がする。 命は大切なもの――何よりも大切なものだと思う。 愛情すらも、人はまず命を授からなければ育むことはできないのだから。 だが、人が人の命を育てるということになれば、そこには責任というものが生じるだろう。 聖闘士に――明日、戦場でその命を落とすことになるかもしれない聖闘士に――その責任が負えるものなのだろうか。 「星矢……星矢……」 瞬には、それ以上耐えることができなかった。 抑え切れなかった涙が、その瞳からあふれ出てくる。 「瞬……?」 仲間が突然ぽろぽろと涙を零し始めたのを見て、星矢は虚を衝かれたように きょとんとした顔になった。 そして、まるで彼自身が子供であるかのように大きな瞳を更に大きく見開く。 「瞬、おまえ、なに泣いてんの」 「なに泣いて……って、だって、星矢が子供を育てるなんて、どう考えても無理なことでしょう。せめて、沙織さんの許可を得て、経済的な援助を受けて、周囲の理解と協力を得ないと現実的には――」 「子供……って、確かにあいつらは子供つったら子供だけど……」 いったい瞬は何を考えているのだと言いたげな視線を瞬に向け、星矢は両の眉を盛大にしかめた。 |