「こ……これが、星矢が授かった命……?」 城戸邸のサンルームは、庭に面する壁全体が、左右にスライドさせることのできる強化ガラスでできている。 冬の間は閉じられていたガラスの壁が、今は庭に向かって大きく開かれ、庭にあるものと全く同じ春の陽射しと空気が部屋の内に充満していた。 室内に春を分けてくれている城戸邸の庭では、右手から正面にかけて 白と薄桃色の芍薬が華麗かつ華麗な花を咲かせている。 それらの花の手前、芝の絨毯が敷き詰められたちょっとした平地で、星矢が授かった命たちは群れを成して、懸命に生きていた。 若緑色のその姿は まだ頼りなく、それゆえ健気そのもの。 それは――星矢が言っていた“せっかく授かった命”――というのは、つまり、植物だったのだ。 「これさ、絶対、去年の夏に俺が食べて飛ばしたスイカの種が芽を出したんだと思うんだよな! 去年、何度もここでスイカ食いながら花火したろ? あん時の子たち」 「――」 嬉しそうに瞳を輝かせて そう告げる星矢を、瞬はぽかんと見詰めることになったのである。 本音を言えば、この無邪気な種まき男に『涙を返せ』と言いたくなった。 しかし、当の星矢は、自分が ところ構わず種を蒔いて歩く傍迷惑な人間だということを(“相手構わず”よりは ましであるが)自覚していないどころか、反省すらしていないらしい。 彼は、自分こそ正義といわんばかりの態度と声で、彼の主張を主張してきた。 「だから、俺がこいつらを立派に育てて、今年の夏にはここを立派なスイカ畑にしてやるって言ったのに、沙織さんは、そんなの庭の景観が乱れてみっともないから、こいつらを全部抜いちまえって言うんだぜ! 血も涙もない言い草だと思わないか!」 「――」 確かに、犬や猫とは違って、スイカは自分でエサを調達することはできないだろう。 毎日 水をやり、雑草を取り、時には肥料をやることもしなければならないのだろう。 実を実らせるための受粉すら、人間の手を介さなければならないものなのかもしれない。 『良く言えば鷹揚、悪く言えばズボラで大雑把な星矢に、この命たちを育てることは無理だ』という沙織の判断は、瞬にも それなりに妥当なものに思えた。 しかし、星矢の決意は固いらしい。 「とにかく、俺はこいつらを命をかけて守ることにしたんだ。こいつらが立派なスイカになるまで」 そして、立派なスイカになった暁には、もちろん星矢はその命を自分の胃の中に収めてしまうのだろう。 それが命の流れ、それは命の宿命である。 瞬は、その点で星矢を責めようとは思わなかった。 その点では。 「でも、あの様子だと、いつ俺のスイカたちが沙織さんにひっこ抜かれちまうかわからないだろ。この分じゃ、こいつらが立派なスイカになるまで、沙織さんにひっこ抜かれたりしないように、毎日見張りに立たなきゃならないだろうから……瞬、協力してくれよな」 「毎日……?」 「紫龍は今 中国に行ってるから、帰ってきたら協力させるとして、氷河にも協力要請しといた方がいいかな」 「……」 はたして、協力とは“させる”ものだろうか。 それはともかく、氷河までをこの命を守るために動員しようという星矢の計画には少々無理があるように、瞬には思われた。 「氷河に協力を仰ぐのは無理だと思うけど」 「なんで?」 「氷河は、スイカが嫌いだもの」 「あ、そっか」 星矢は、“せっかく授かった命”可愛さのあまり、その重要な事実を失念していたらしい。 氷河がスイカを嫌っているという、超重要な事実を。 子供の頃にはさほどでもなかったのだが、氷雪の聖闘士になって日本に帰国して以降、スイカの季節が巡ってくるたび冷蔵庫の代わりをさせられて、氷河はすっかりスイカ嫌いになってしまったのだ。 何より氷河を腐らせたのは、“凍りつかない程度にスイカを冷やす”作業の難しさのようだった。 より強く より大きく小宇宙を燃やすための修行は積んできたが、小宇宙を抑えて燃やす技術など学んでこなかった彼には、それが神経を磨り減らすようにして為さなければならない難事業だったらしい。 『磨り減らす神経が氷河にあったのか』という問題はさておいて、そのせいですっかりスイカ嫌いになってしまった氷河は、やがてスイカを食することもやめてしまった。 にもかかわらず、相変わらず冷蔵庫代理依頼は彼の許に舞い込んでくる。 それで氷河はますますスイカが嫌いになる――の悪循環だった。 城戸邸の厨房ではその事実を心得ていて、スイカを食材としたデザートを出す時には、氷河の分は用意されず、いつも代わりのものが出される。 最近は瞬も そんな氷河に付き合うようになり、瞬自身、スイカにはとんとご無沙汰していた。 「んじゃ、氷河はパス。俺とおまえの二交代制な」 「え」 「ああ、わかってるって。おまえは夜は氷河の相手しなきゃならないんだよな。俺だって、無理なことは頼まねーよ。夜の見張りは俺がやるから、日中はおまえに頼むな」 『頼むな』と言われても、瞬としては気楽に『任せといて』と答えることはできなかった。 二交代制とは、つまり12時間交代ということだろうか。 星矢には星矢の都合があるのだろうが、瞬には瞬の生活というものがあるというのに。 「星矢、あの……」 「なあ、おまえの小宇宙で温度とか調節すればさ、温室と同じ効果を出したりもできるんじゃねーか? んで、うまくすれば1年中スイカ食い放題ってこともできたりして」 春の桜、夏の薔薇、秋の菊、冬の椿。 沙織が愛してやまない城戸邸の庭にスイカがゴロゴロ転がっている光景を思い描き、星矢はすっかり夢見心地である。 星矢の夢は大きな翼を広げて、既に大空に飛翔してしまっているようだった。 夢見る乙女さながらの眼差しを、今はまだ小さな双葉にすぎないスイカたちの上に投じていた星矢が、突然その眼差しを険しく厳しいものに変える。 彼は、そうして、並々ならぬ決意を全身にたぎらせて、春の空に向け断言した。 「そのためにも、この健気な命たちを守るんだ! それが俺たちアテナの聖闘士の務めだ!」 「星矢、でも、あの、どうして僕が……」 健気な命たちを守る使命感に燃えている星矢に何を言っても無駄だということは、瞬も薄々わかっていた。 まして、その使命を果たし終えたあとには“スイカ食べ放題”という素晴らしい ご褒美が待っているとなれば、星矢の決意はもはや誰にも変えることはできないだろう。 彼に張り切るなという方が無理な話なのだ。 そして、その熱血に仲間たちを巻き込み、引き込む力を有しているからこそ、星矢は物語の主人公であり、タイトルロールなのである。 神には勝てても、星矢には勝てない。 それが瞬に課せられた逃れられない宿命だった。 つまるところ、瞬は、その日その時から、城戸邸の庭に芽生えた命たちの見張り番をすることになってしまったのである。 何があっても守り抜くと星矢を決意させたもの――。 それらは改めてじっくり見詰めてみると、確かに可愛らしい様子をしたものたちだった。 この命の芽を摘み取りたくないという星矢の気持ちには、瞬も心から共感できた。 今は小さく頼りない この芽が大きくなって、茎や葉を伸ばし、花を咲かせ、小さな実をつける。 その小さな実が日ごとに大きく育っていく様を見守る行為は、とても楽しいことだろう。 それは、戦いなどよりずっと、戦いとは違う意味で、命の大切さを感じることができる行為なのかもしれなかった。 信頼できる人に任せているにもかかわらず、紫龍が一シーズンに一度は中国に赴き、彼の畑の様子を見に行く理由もわかるような気がする。 おそらく、紫龍は――紫龍もまた――健気な命たちを育む行為に意義と魅力を感じている人間の一人なのだ。 半ば強制された仕事だったのだが、健気な命を見守っている行為は、それなりに有意義で楽しく思うこともできる行為だった。 星矢の“せっかく授かった命”を見詰め見守っている作業は、だが、瞬にとっては楽しいばかりの作業ではなかったのである。 なにしろ、この仕事の勤務体制は12時間交代制という、実に過酷なものなのだ。 その上、勤務時間中はもちろん勤務時間外にも、スイカ嫌いの氷河には この仕事のことを知られないようにしなければならない。 それだけでも神経を遣うことだったのだが、しかし、瞬を最も疲れさせたのは『見張りという作業は動かなくてもいい』という事実、むしろ『動いてはならない』という事実だったのである。 己が身に聖衣をまとい、その拳で敵と戦うことを生業としている聖闘士にとって、身体を動かさずにじっとしているという行為は苦行以外の何ものでもなかった。 乙女座バルゴのシャカが“最も神に近い男”と呼ばれている訳が、瞬は、スイカの見張りをするようになって初めて わかったような気がしたのである。 身体を動かしていることを自然に感じ、楽に感じられるのがアテナの聖闘士。 そのアテナの聖闘士であるシャカが結跏趺坐の態勢を長時間維持し続けているのである。 シャカが、もし、小宇宙のコの字も有していない人間だったとしても、聖闘士たちは皆、彼を畏敬していたに違いなかった。 |