「も……もしかして、これって、初の夫婦喧嘩ってやつか? おもしれー!」
そう言う星矢の声は、氷河を責めていた瞬の声以上に上擦っている。
星矢は完全に浮かれているようだった。
今 星矢を捉えているものは、“戦いの予感”という高揚感。
今の星矢の表情からは、氷河と瞬の間に起こったトラブルを心配している様子は全く読み取れない。
いちばんの親友を脇からかすめ取ったと言って氷河を責める権利は 星矢にはないと、その時 紫龍は嘆息したのである。
この寸劇を見せられて、心配より興奮が先立つようでは、星矢の友情もたかが知れている。
もっとも、星矢の興奮は、これで氷河と瞬が決定的な決裂に至ることを懸念していないがゆえの興奮でもあったろうから、その程度には星矢の友情も篤い――という見方もあったろうが。

氷河と瞬の夢の対決。
この対決でどちらが勝つのか、どちらが強いのか――に、ともかく星矢は興味津々らしい。
実力・小宇宙の強大さなら、瞬に軍配が上がるだろうが、しかし、瞬には『敵に対して今ひとつ攻撃的に出ることができない』という致命的な弱点がある。
純粋にバトルの観戦者として、星矢は夢の対決の勝敗の行方が気になって仕方がないようだった。

「夫婦喧嘩というのには語弊があるだろう。せめて痴話喧嘩と言ってくれ」
この いさかい(?)をどう表するのが最も適切なのか。
星矢ももちろん、そんなことには全く興味がない。
星矢の感性では、これは、夫婦喧嘩でも痴話喧嘩でもない、一対一の真剣勝負なのだ。
それ以下でもそれ以上でもなく、それ以下でもそれ以上でもないからこそ、価値あるバトルなのである。

「普通に考えたら、瞬が勝つだろうけど――」
「普通に考えたら、氷河が勝つだろう」
「うーん」
そのどちらもあり得る。
それは、どちらもあり得ることだった。

この春 最初にして最大の一番勝負。
これは実に面白いことになりそうだと、星矢は瞳を炯々けいけいと輝かせた。
星矢は、その時点ではまだ気楽な第三者だったのである。
彼が気楽な第三者でいられなくなったのは、夢の対決の当事者である瞬が、憤懣やる方ないという足取りで庭に出てきた、その時だった。

「おーい、瞬!」
すっかり世界タイトルマッチ前夜の興奮に支配されている星矢が、無思慮に瞬を呼びとめる。
そこに仲間がいるとは思っていなかったらしい瞬は、一瞬 その身体を強張らせた――ように、紫龍には見えた。
そして、すぐに、星矢に呼びとめられる前から怒らせていたらしい肩から力を抜く。
あるいは、それは、瞬の意思に関係なく、勝手に力が抜けてしまっただけのことだったのかもしれなかったが。

「やっと、氷河でなく花を見る気になったのか」
瞬の様子が尋常でないことを感じ取った紫龍が、さりげなく瞬に探りを入れる。
が、今の瞬は、花を愛でる余裕など、1ミリグラムも持てる状況にはなかったのだろう。
紫龍にそう言われた途端、何かのスイッチが入ったように(あるいは、切れたように)、瞬の瞳からは涙が一粒 零れ落ちた。

「ど……どうしよう……。僕、氷河をぶっちゃった……。それも、手加減しないで思いっきり――」
「おまえが本当に手加減していなかったのなら、氷河は今頃ハーデスの国の住人だろう」
紫龍のその見解は誰にも否定できない正論だった。
それはまた、適切な慰めの言葉にもなっていたのだが、いかに適切な慰撫の言葉も、瞬の耳と心に届いていないのでは、無効にして無益。
そして、瞬は、たった今 自分のしでかした行為に衝撃を受け、仲間の慰めも聞けない状況に陥ってしまっていたらしい。

「どうしよう……。氷河をぶっちゃった……! 僕、もう、氷河に許してもらえない……!」
最初の一粒が、瞬の涙の堰を切ってしまったのだろう。
瞬は、仲間たちの前で わんわん声をあげて泣き始め、瞬に泣いてすがりつかれた星矢は、先程までの威勢のよさはどこへやら、すっかり瞬の“頼りないお友だち”になりさがってしまったのである。
夢の対決が始まるのを期待した途端、瞬にこれほど盛大に泣かれてしまっては、勝負の行方も何もあったものではない。
戦いのゴングが鳴り響くなり、拳を打ち出すこともせずに泣き崩れるファイター。
そんなファイターの勝利など、到底期待できない。

「そ……そんなに泣くくらい後悔してるなら、謝ればいいじゃん。氷河はおまえに甘いから、すぐに鼻の下伸ばして許してくれるだろ」
氷河と瞬の戦いを煽ることは、結局 星矢にはできなかった。
そうしたいのはやまやま、そうする意欲も満々だったのだが、それでも できないものはできない。
神を相手にしても臆することをしない恐いもの知らずの星矢が、心底から恐れる唯一のもの。
それが、瞬の涙だったのだ。

「ほら、早く謝ってこいよ」
星矢は、天馬座の聖闘士にしては穏健かつ常識的なアドバイスをしていると、自分でも呆れていたのである。
しかし、瞬の涙をとめるには こうするしかあるまい――他に方法はない。
それは、そう考えた上での、ある意味妥協を含んだ提案だった。

天馬座の聖闘士より更に穏健なアンドロメダ座の聖闘士は、すぐに仲間の助言に従うだろうと、星矢は信じていた。
氷河と瞬のこれは、結局のところは軽い痴話喧嘩にすぎないと、つまり、星矢はたかをくくっていたのである。
だが、超穏健派であるはずの瞬の、仲間の提案に対する反応は、星矢も驚くほど過激苛烈なものだった。
瞬は、一歩たりとも譲歩するつもりはないらしい態度と口調で、
「僕は悪いことをしていない。悪いのは氷河だ。どうして僕が氷河に謝らなきゃならないの!」
と断言してみせたのだ。

有無を言わせない その迫力に、星矢は思わずたじろいでしまったのである。
「いや、でも、氷河を殴っちまったんだろ。思いっきり。んで、氷河に許してもらいたいんだろ? だったら謝るしかないじゃん」
星矢の穏健極まりない意見を、瞬は再度きっぱりと却下した。
「謝らない。謝るのなら、それは氷河の方だ」
断固とした口調で、だが、涙をぽろぽろ零しながら、瞬は言うのである。

星矢に、いったい何ができただろう。
星矢にできることはただ、情けなくも頼りない口調で、瞬の謝罪への付き添いを申し出てやることくらいのものだった。
「そんな泣きながら言うなよ。気まずいなら、俺が一緒に謝ってやるからさー」
「そういう問題じゃないよ! 非を認めていないのに、場を収めるために謝るなんて、氷河にも失礼なことでしょう」
だが、瞬は星矢の言うことをきかない。
きかずに、
「もう僕は氷河に嫌われちゃったんだ……。僕、これからどうしたらいいの……」
と嘆くばかりである。

瞬はいったい、氷河に許されたいのか許されたくないのか。
そして、氷河を許したいのか許したくないのか。
星矢には、涙に暮れつつ氷河への謝罪だけは断固として拒む瞬の気持ちが、全くわからなかったのである。






【next】