人と人の争い、国と国との争い――争いというものは すべてこんなふうに起こるものなのかもしれない。
対立する二つの陣営に、それぞれ譲ることのできない正義がある。
もちろん、その正義の陰には、利己的な思惑や卑俗な感情や無責任、諦観等、様々な要因が潜んでいるのだろうが、自分の正義がなければ、人は自分を積極的に戦わせることができないし、自国の正義がなければ、国は国民を戦いに駆り出す力を持つことはできないだろう。
だとしたら、正義とは何と傍迷惑なものであることか。
人が正義などというものを捨てて、ただ愛する人と愛する人の生きる世界のために 己が身と己れの心とを犠牲にする気持ちを持つようにならなければ、この世界から戦いが消えることはないのかもしれない。――と、星矢は思ったのである。

だが、この地上に生きるすべての人間が他者のために自分を殺す術を身につけてしまったら、おそらく いつかは人は皆 滅びなければならなくなるだろう。
そして、“彼”が守りたかった世界には 命が一つも存在しなくなる。
それでは本末転倒なのだ。
我が身にすべての人の罪を引き受け神の許しを請う救世主キリストは、イエスひとりしかいないから救世主キリストなのである。
人間がすべてキリストになってしまったら、そもそも世界が立ち行かない。
では、人はどのようにして自身と他者の正義を守り、自身と他者の命を守り、この世界を存続させていけばいいのだろう――?

前世紀、この世界には“冷戦”という体制を持った時代があったそうだが、それは人類の知恵の行き着いた一つの到達点だったのだろうか。
直接の武力衝突を行なわず、血を流さず、憎み合い対立し合いながらも、二つの陣営は数十年間 並存し続けた。
結局は、その体制も崩壊してしまったのだが。

(うー……。難しいこと考えてたら、アタマ痛くなってきた……)
その頭痛に負けて、星矢はそれ以上 人と人の争いについて考察するのをやめることにした。
それでも――氷河と瞬の痴話喧嘩も収められないアテナの聖闘士に、地上の平和を実現することができるのかという不安は残る。
ここは、せめて氷河と瞬のいさかいだけでも収拾をつけなければ、アテナの聖闘士の存在意義が失われてしまいかねない。
アテナの聖闘士がアテナの聖闘士として、この地上に在り続けるために――星矢は、氷河と瞬の痴話喧嘩をどうにかしなければならなかった。






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