氷河と瞬の冷戦状態は夜になっても続いていた。
他人の目を気にせず いちゃいちゃされるのも迷惑だったが、目の前で尋常でない緊張感を漂わせ 刺々しい空気を振りまかれるのは、“いちゃいちゃ”に輪をかけて迷惑である。
喧嘩をしている当人たちは 自分の意思を通しているだけなのだから気分もいいだろうが、中立地帯に立つ者たちは居心地が悪くてならないのだ。
そんな星矢たちの気持ちを知ってか知らずか、その日 夕食が済むと、瞬はまっすぐ自室に下がっていった。
食後はダイニングルームからラウンジに移動して お茶を飲みつつ 仲間同士の親睦を深めるのが、城戸邸に起居するアテナの聖闘士たちの習慣になっていたのだが。

瞬の姿のないラウンジで、星矢の不安は更に募ることになったのである。
この分では、今夜 氷河と瞬は別々の部屋で休むことになるだろう。
彼等が夜のイベントを有効に使うことをしないとなったら、いったい氷河と瞬はいつ どうやって仲直りをするのか。
へたをすると、この居心地の悪い日々は まだ当分――もしかしたら永遠に――続くことになるのではないか――。

星矢は、それだけは御免被りたかったのである。
そんなことになったら、瞬の瞳は毎日四六時中涙で濡れていることになるだろう。
となれば、瞬の涙に出会うたび心臓に負担を覚える天馬座の聖闘士もまた、毎日四六時中 心臓に負担をかけられ続けることになる。
自分の か弱い心臓がその負担に耐え抜くことができるとは、星矢にはどうしても思うことができなかった。

そんな星矢にとって、氷河と瞬の夜のイベントは、今夜に限っていうなら、漆黒の闇の色をした空に燦然と輝く唯一の希望だったのである。
だというのに、氷河と瞬は、彼等の仲間の唯一の希望をすら踏みにじろうとしているのだ。
氷河と瞬に そこまでされて――星矢は、本気で腹が立ってきてしまったのである。

ほとんど それ・・をするために互いの恋を告白し合ったのではないかと思えるほど、毎晩励んでいた二人が、こんなことでいいのか。
そもそも そんな夜を過ごすことが二人に可能なのか。
苛立ちまぎれ、腹立ちまぎれ、そして、少々の懸念に衝き動かされて、星矢は氷河を問い質してみたのである。
「氷河。おまえ、今更 一人寝なんてできるのかよ」

心配してやる義理はないが、気になるものは気になる。
星矢の質問に、氷河は無言の答えを返してきた。
瞬に比べれば はるかに冷静でいるように見えていたが、もしかすると、氷河自身、その試練に耐えられるという自信を持てずにいるのかもしれなかった。
ならば、その試練を回避するためにも、氷河は依怙地に己れの正義を貫くことの無益を悟るべきである。
諦めの悪さが天馬座の聖闘士の身上。
氷河の沈黙に力を得て、星矢は、もう一度 氷河の説得を試みることを決意したのだった。

その時。
その時だった。
氷河と顔を合わせるのを避けるように 夕食を終えるなり自室に引きこもってしまったはずの瞬が、険しい顔をしてラウンジのドアを開け、仲間たちの方に歩み寄ってきたのは。
その表情からして、瞬が氷河と仲直りをするために この場にやってきたのではないことは明白。
この騒ぎの当事者でない星矢と紫龍は、前触れもなくラウンジに登場した瞬に不審の目を向けることになったのである。

そんな二人を牽制するように、瞬が、威圧的な眼差しで仲間たちを睥睨する。
だが、それも一瞬のこと。
瞬の視線はすぐに、彼の不倶戴天の敵の上に移動した。
そして、その眼差し以上に強圧的な口調で、氷河に告げる。
「最初に言っておくけど、僕は氷河を許してないよ。僕が悪いわけでもないから、謝る気もない」

強圧的な態度と視線は虚勢なのかもしれないと思うこともできるが、瞬のつんけんした刺々しい口調は、氷河ならぬ身の星矢の耳にも全く快いものではなかった。
素直でない瞬が、これほど可愛くない存在だったとは。
星矢は思わず、『なら、何をしに来たんだ』と嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったのである。
実際、星矢は、その考えを行動に移そうとした。
が、星矢がそうする前に、瞬の唇は、実に思いがけない言葉を吐き出したのである。
「でも、一人で眠るのはいやだ」
――と、瞬は言ったのだ。

まるで瞬の唇がその言葉を発することを見越していたかのように、氷河が、掛けていた肘掛け椅子からゆっくりと立ち上がる。
「俺もだ」
「あ……」
氷河の返事を聞いた瞬が、少し気弱げな目をして、白鳥座の聖闘士の顔を見上げる。
そういうところは、瞬は以前のままだった。
「そ……そうだと思った」
ほっとしたように安堵の息を洩らし、瞬が瞼を伏せる。

その瞬間、瞬の全身を包んでいた緊張は跡形もなく消え去り、同時に、ラウンジ内に漂っていた緊迫した空気もまた消え失せた。
代わって、その場を支配したのは、いかにも春の宵らしい、暖かく和やかで どこか艶めかしい空気である。
その春の宵めいた空気を揺らして、氷河が瞬の身体を抱き寄せる。
瞬の髪に唇を押し当て、瞬の肩を抱き、そして そのまま、氷河は瞬を伴ってラウンジを出ていった。
その間、おそらく30秒足らず。
それは、自分の目の前で今 いったい何が起こったのかを星矢が知覚し、思索し、その結論に至るには あまりに短すぎる時間だった。


「なんだよ、あれ!」
星矢が室内に頓狂な声を響かせたのは、氷河と瞬の姿がラウンジから消えて3分以上の時間が経過してからのことだった。
たっぷり3分考えても、結局星矢は『これぞ正しい解釈』と確信できるほどの答えに辿り着けなかったのだ。
氷河と瞬が何を考え、いったい何のために こんな不可解な行動をとるのかが、星矢には考えても考えてもわからなかった。
3分の時間をかけて星矢に得ることのできたものは、『氷河と瞬の思考言動は理解不能』という、結論とも解答とも言い難い、ただ一つの認識だけだった。

おそらく紫龍は、恋人たちの言動を道理や理屈で説明することは、そもそも不可能――と決めつけていたのだろう。
「まあ、あの二人は明日には仲直りしているということだろうな」
という彼の推察は、深慮熟考の末に至ったものとは思えなかった。
それは、言ってみれば、根拠のない希望的推測にすぎなかったのだが、むしろ、だからこそ、星矢は紫龍の予見の実現を信じることにしたのである。

考えてみれば、あの二人は、今日の午前中まで、もし引き離されることがあったなら そのまま死んでしまうのではないかと思えるほどの親密さで べったりとくっつき合っていた二人なのだ。
再度くっついてしまったら、二人は、今度こそ二度と離れることができなくなるに決まっている。
そうなれば、当然の帰結として、氷河と瞬の冷戦は終結し、この世界には平和が戻ってくる(だろう)。
そうに決まっている。
そうに決まっていると、星矢は決めたのだった。

少々乱暴なその決定のおかげで、その夜 星矢は安らかな眠りに就くことができた。
明け方近くまで 氷河の部屋の方から、何やらなまめかしい空気が洩れ出ているような気がしたが、それはいつものことなので、星矢は気にもとめなかった。






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