紫龍の推察通り、これは長期戦になるのかもしれない――と、星矢が覚悟を決めた頃。
その日、星矢は、冷戦の余波を避けるべく、再び春の庭に立っていた。
以前は、氷河と瞬の“いちゃいちゃ”の邪魔をしないために この庭に出ていたのだと思うにつけ、世の無常をひしひしと感じる。
有為転変は世の習い。
氷河と瞬に今ひとたびの変化を期待することが無理無意味なことだとは、星矢は思いたくなかった。
思いたくはなかったのだが、彼の口から出てくる言葉はどうしても悲観的なものになってしまう。
「なあ。あの二人、もうずっとこのままなのかなあ」

悲観的ではあっても、まだ絶望することはできない。
いい加減で諦めればいいのにと自分でも思うのだが、星矢はどうしても真の雪解けを諦めてしまうことができなかった。
であるから、星矢のそのぼやきは、紫龍に、どれほどささやかなものでもいいから“希望”を語ってほしいと期待してのものだったろう。
が、紫龍から返ってきた返答は沈黙。
紫龍は既に氷河と瞬の関係改善を諦めてしまったのかと、星矢は訝ったのである。

しかし、事実はそうではなかった。
紫龍が、無言で、その視線で ある方角を星矢に示す。
そこに瞬の姿を認めるより先に、星矢の耳は何やら怪しげな響きを含んだ瞬の声を感知することになった。
星矢たちは 氷河と瞬の冷戦の巻き添えを避けるために春の庭に出たはずだったのに、冷戦の主戦場はいつのまにか春の庭の中に移動してしまっていたらしい。

「ん……んっ」
何やら怪しげな瞬の声の発生地は、城戸邸の庭にあるライラックの中でいちばん背の高い木の下。
その木の陰に、氷河と瞬がいた。
二人は互いに互いを抱きしめ合って、唇を重ねている。
瞬の腕は 氷河の首と背にしがみついており、氷河の腕は 瞬の髪と腰に絡みついていた。
時刻は、氷河と瞬が冷戦状態にあるはずの昼日中。
だが、それはどう見ても戦闘ではなかった。
嫌々ながらの行為ではなく――二人の舌が絡み合っているのは遠目にも明白だった。

舌や腕だけではない。
それどころか!
氷河の右の脚は、瞬の膝の間に割り込もうとさえしていた。
氷河が、自身の身体で瞬の身体を 木の幹に押しつけている。
「あ……だめ……氷河、それは……ここじゃ……んっ」
「ここでなければいいのか」
瞬の首筋に唇を移動させて、氷河がからかうように瞬に尋ねる。
「それは……あっ……あっ……ああ……!」

瞬は、どう見ても、氷河にからかわれることを喜んでいた。
その気になれば、不埒な振舞いに及ぶ男を宇宙の果てにまで吹き飛ばしてしまえる瞬が、そんな弱々しい抵抗をしてみせること自体、あまりに白々しい。
全く無意味な瞬の抵抗は、要するに、ここ・・で、それ・・をしてほしいと、氷河にねだり、氷河を誘うためのものだった。

そんな場面を見せられて、星矢は さすがにかっとなってしまったのである。
周囲の迷惑を顧みず、冷たい戦いを続ける二人が――続けているはずの二人が――、こんなところで、こんなふうに、こんなことをしていていいものだろうか――それは許されることなのだろうか。
許されるはずがない。
断じて、それは許される行為ではないはずだった。
「てめーら、いいかげんにしろっ! てめーらのしてることは傍迷惑の極みなんだよ! 仲直りしてるのなら、さっさと喧嘩終結宣言しやがれ! そしたら、部屋の中でも庭ででも、どこで何してても見て見ぬ振りしてやるからよ!」

「せ……星矢……」
そこまで言ってくれるのなら、できれば たった今も見て見ぬ振りをしてほしかったというのが、瞬の本音だったろう。
乱れた襟元を手で覆い、直しながら、瞬は、一度は恥ずかしそうに視線を地面に落とした。
だが、すぐに顔を上げる。
未練のように恋人の腰に絡んでいた氷河の腕を外させ、自分を責める仲間を睨み返しながら、瞬はあくまでも言い張った。

「僕は、氷河を許してない」
瞬のこの意地の張りようには、驚きもしたし、奇異の念も抱いたし、疲れもしたし、迷惑も被った。
しかし、今 星矢の胸中にある感懐は、既に感心・感嘆といっていいようなものだった。
そして、星矢は、こういう状況を仲間に見られてもなお意地を張り続ける瞬に呆れ果ててもいた。

「あのなー。毎晩一緒に寝て、昼間は昼間で昼間っから そうやって絡まり合っててさ、仲直りしてないも許さないもないだろ」
「氷河は、人として許せないことをした。絶対に許さない」
「俺は前言を撤回をするつもりはないぞ。俺は事実を言っただけだ」
瞬に意地を張り続けられることに最も困っているはずの男が、瞬の頑迷を煽るようなことを言う。
氷河の馬鹿さ加減にも、星矢は呆れ果てていた。

一輝が暑苦しい顔をしているとかブラコンだとか、そういう発言は、解釈のしようによって事実にも中傷にもなる類のことである。
氷河はそれを事実だと主張し、瞬はそれを中傷と感じて憤っている。
だが、それが氷河と瞬の恋にどう関係があるというのだ。
一輝の顔が暑苦しかったとしても、一輝が重度のブラコンだったとしても、だからといって、氷河が瞬を嫌いになることはないだろうし、瞬もそれは氷河と同じだろう。
ならば、瞬の兄の顔の暑苦しさは、氷河と瞬の恋には、正しく無関係な事柄のはず。
それは、二人が固執する必要のないことのはすなのだ。
だというのに、なぜこの二人は、こだわる必要のないことに ここまでこだわり続けるのだろう。

「あのさ、人間てのにはさ、それぞれの考え方や価値観てのがあるんだ。だから、人が同じ世界で生きていくには、妥協ってもんが必要なの。たとえ自分の正義とは違う正義を主張されても、どんなに許せないことを言われても、許してやらなきゃならない時ってのがあるんだよ。まして、おまえらは好き合ってるんだろ? お互いに寛容の気持ちを持ったってバチは当たらないだろ?」
それは星矢が言っていいセリフではなかった。
最も星矢らしくない発言――と言ってもいいだろう。
自分の信じる正義を貫くためには、脇目もふらず、他人の言葉にも耳を貸さず、ひたすら一直線に突き進むのが星矢である。
その星矢が、氷河と瞬に“妥協”を勧める。
それは、とりもなおさず、星矢こそが妥協したということだった。
地上(城戸邸)の平和のために、仲たがいを続けている仲間たちのために、星矢は――星矢こそが――自分の意思とポリシーを曲げてみせたのだ。

星矢にそんなことをさせてしまったことに、さすがに瞬は罪悪感を覚えたようだった。
人のために我と我が身を犠牲にすることに躊躇を覚えないのが身上のアンドロメダ座の聖闘士は、他人が自分の犠牲になることには慣れていない。
他人に犠牲を強いてまで我を張り続けることに、瞬は慣れていなかった。
「そんなこと、わかってる……。そんなことは、僕だってわかってるよ……」

瞬の声が涙を帯び始めている。
星矢は、内心で、『もう一押しで瞬は折れる!』と快哉を叫んでいたのである。
これで城戸邸には平和の時が戻ってくるに違いない! と。
そう確信して、星矢が最後の一押しにとりかかろうとした時。
微かに震えていた瞬の唇は、あまりに悲痛な、あまりに悲愴な、そして、あまりに奇天烈な悲鳴を春の庭に響かせたのである。

「でも、どうして許せるの! 氷河は、僕の氷河の悪口を言ったんだ!」
「へ?」
「わ……我儘で、人の気持ちを思い遣ることのできない大馬鹿者で、外見は日本人ぽくなくて気持ち悪いし、どこがいいのかわからないなんて――そんなこと言う人を、どうして許せるのっ !! 」
「は?」

「俺は事実を言っただけだ」
氷河が、こんな時に限ってクールに断言する。
そして、瞬は、こんな時に限って、敵に噛みつくように攻撃的だった。
「事実じゃないよ! 僕の氷河は優しくて綺麗で、傷付いた人の心を思い遣ることもできる強い人だ! 氷河の言うことは根も葉もない中傷だよ!」

「え……あ……氷河が氷河の悪口……? なに……?」
氷河と瞬の冷戦が勃発して1週間余り。
その数日の時間の中でたった今、星矢は最も激しい混乱に襲われていた。
「事実と違う中傷で、氷河は僕の氷河を侮辱した! どうして僕が氷河を許せるの! 僕は絶対に――」
そんな星矢の前で、瞬が悔しそうに唇を噛む。
瞬は、そうして、唇だけでなく自身の言葉をも強く噛みしめるように、
「絶対に許さない……!」
と言ったのだった。

瞬の兄の顔の暑苦しさは無関係。
氷河が氷河自身を貶める発言をし、瞬が氷河の見解を認められなかった――。
それが、氷河と瞬の冷戦の真の原因、真の姿だったことを、事ここに至って初めて、ついに星矢は知ることになったのである。






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