凶暴で獰猛な野蛮人というスキュティア卿の噂は、完全に事実に反していた。 氷河は、剣の立会いの作法もルールも正しく心得ていた。 太刀筋は鮮やかで鋭く、その所作にはほとんど無駄がなく流れるように美しい。 スキュティア公爵の城の闘技場で彼と剣を合わせながら、ともすれば その姿に見とれてしまいそうになる自分を、瞬は幾度も叱咤することになったのである。 姿だけでなく、彼はその所作の一つ一つ、手の動き、足の運び、何もかもが端正で美しい。 やはり、この彼に関して、なぜ獰猛で凶暴な野蛮人という噂がかくも広まることになったのか、瞬にはどうしても合点できなかった。 合点できないまま、瞬自身が事実とかけ離れた噂に悩まされた経験を持つ者であるだけに、噂というものの恐ろしさが身に染むことになったのである。 噂に語られる姿とは全く違う姿を持った氷河は美しく、彼と剣を合わせている時間は、瞬には非常に愉快かつ快く感じられる時間だった。 流れるような動きの先を察して そのタイミングを外してやるたび、僅かに片眉をひそめる氷河の表情は、実に可愛い。 瞬は、楽しくてならなかったのである。 リビュア伯爵の弟が ここまで楽しい手合わせができるということは、氷河が並々ならぬ使い手であるということで、それも瞬は嬉しかった。 瞬が、そんなことを感じ考えながら氷河と剣を合わせていられたのは、瞬が氷河に負けていなかったからである。 氷河に告げた『剣で人に負けたことがない』という言葉は、決して嘘ではなかった。 瞬は、王ではなく兄に忠誠を誓っていたので、瞬を騎士に叙してくれたのは国王ではなく瞬の兄だったのが、その時以来、瞬が剣で人に負けた経験を持つことがなかったのは紛れもない事実である。 氷河が幾度も瞬にタイミングを外されてしまうのは、彼の剣術が巧みなものであるからこそ、彼はその手に引っかかってしまうのだということも、瞬にはわかっていた。 そんなふうに氷河を翻弄することはできるのだが、瞬は彼に勝つことはできなかった。 勝負はつかない。 いつものことだった。 瞬は攻撃せず、相手の剣をかわしているだけなのだ。 そうやって対戦相手のタイミングを外し続け、疲れさせ、相手の自滅を誘う。 それが、体格と体力で人に劣る瞬の戦い方だった。 氷河は、自分が、痩せっぽちの年下の子供に勝てないことを不思議に思っているようだった。 少し、焦りが見える。 氷河には不思議でならないことだろうが、それは不思議でも奇術でも何でもない。 瞬の剣は、この国で、獰猛凶暴なスキュティア卿に並ぶほどの勇猛で名を馳せた実兄に仕込まれたもの。 剣術学校で月謝を払い、嗜みとして剣を学ぶ貴族の子弟たちとは、 氷河の焦りが出てきたところで、瞬はこれまでになく大きく タイミングを外し、自身の剣を軽く横に払った。 それで、氷河が剣を床に落とす。 床に転がった自分の剣を、氷河は随分と長いこと、呆然と見おろしていた。 彼は――彼自身もまた、瞬と同じように、これまで剣の扱いで人に負けたことがなかったのかもしれなかった。 瞬は、この勝利と敗北を軽いものにするために、わざと冗談交じりの口調で、 「強いとは言いませんでしたよ。僕は剣で人に負けたことはないと言ったはず。僕、逃げるのだけはうまいんです」 と、氷河に言ってやったのである。 「いや、強いんだ」 呟きとも呻きともつかない声が、氷河の唇から洩れる。 それから、氷河は気を取り直したように、 「今日は俺は調子が悪いんだ。――多分」 と言った。 それが もし、瞬に剣を落とされたことの言い訳なのだとしたら、随分と出来の悪い言い訳である。 考えるまでもなく、彼は、言い慣れていない言葉を口にしている。 瞬は微笑しながら、彼に首をかしげてみせた。 「その可愛い顔が俺を――いや、今日はおまえも疲れているだろう。明日、互いに万全の体調でもう一度――」 「ええ」 首の細い子供にいいようにあしらわれて、彼は混乱しているのだと、瞬は思った。 だが、それは瞬の誤解だったらしい。 瞬の誤解に気付いた氷河が、瞬に言い聞かせるように言葉を重ねてくる。 「誤解のないように言っておくが、多少 俺の調子が悪かったにしても、おまえが強いということは紛れもない事実だ。俺が弱いんじゃない。おまえが強いんだ。間違うな」 「え……」 そんな体面の守り方があるものだろうか。 あるにしても珍しい――と、瞬は思ったのである。 自分を打ち負かした“敵”の力を認めることで、自分が弱いわけではないと言い張る獰猛で野蛮な北の悪魔。 自身のプライドを守るために人を貶めるようなことをしない彼を、瞬は好ましく感じた。 瞬は、兄が彼の悪事(?)に加担している訳がわかったような気がしたのである。 |