復讐は復讐を生み、憎しみは憎しみを生む。 その結果、あとに残るものは悲しみだけなのだから、おまえは復讐など考えるな。 奴を憎むこともするんじゃない。 ――瞬にいつもそう言っていた兄が死んだ。 復讐することは、俺も何度も考えた。 だが、おまえがいたから――復讐の成就より、おまえを幸福にすることの方が何倍も大事だから、俺は奴に復讐することをやめたんだ、瞬。 ――彼が その復讐を断念した男に 殺されたのだ。 兄の言葉の意味を長い間考えて、瞬は――瞬もまた――兄のために、その復讐を諦めていた。 兄のために――兄の幸福のために、諦めた。 だが、その兄が死んでしまったのだ。 彼が『憎むことをやめよう』と言っていた相手の手によって。 瞬に復讐を断念させた人が消えてしまった。 もう、瞬の復讐を阻むものは何もない。 「僕は復讐より兄さんの方が大事だから、復讐を諦めたのに……。兄さんがいなくなってしまったら、あの男への復讐だけが、僕の大事なものになってしまうじゃない」 兄が持っていた、亡き母の形見。 それが、今は、兄の形見として、瞬の手の中にある。 瞬の兄を殺した人物は、瞬と瞬の兄の父親だった。 彼を父親と呼んでいいものかどうか――が、瞬にはわからなかった。 彼が自分の父だと思うことは不快で、彼が自分の父だという事実は、ギリシャの神々が正義よりも彼等自身の感情や尊厳を重視して人間界を支配しているという事実よりも、瞬には認めたくないことだったから。 息子たちに、命の他には何も与えてくれなかった父。 愛情も優しさも思い遣りも、それらのものを培うための機会も時間も、ただ一瞬だけの幸福さえ、息子たちに与えてくれなかった父が、瞬の幸福のすべてであり、唯一の希望でもあった兄を、この世から消し去ってしまったのだ。 兄の死に際しても、彼が瞬に もたらしたものは、『おまえの兄が死んだ』という言葉だけだった。 父が兄を殺したのだということも、瞬は、兄の死後、他人によって知らされた。 父とはいえ――父だからこそ なおさら、瞬は彼を憎まずにはいられなかったのである。 権力と財力をかさにきて冷酷と非道の限りを繰り返す瞬の父を、国中の人間が憎み嫌っていた。 いったいなぜ運命の神は、あのような男をミケーネの国の王にしたのかと、国中が彼への怨嗟で満ちている。 兄の死の真相を瞬に知らせてくれた者も、決して親切心からそんなことをしたのではなかっただろう。 人を憎んでいる者は、同じものを憎む同志を増やしたがる。 彼は、瞬に、瞬の父を憎ませたかったに違いない。 実の息子に、血のつながった父親を憎ませたかったに違いなかった。 だが、彼は、我が子に憎まれても当然の父なのだ。 瞬は、兄の死の真実を知らせてくれた者に感謝こそすれ、恨むことなど考えもしなかった。 『おまえが幸せになるために、父への憎悪を捨てろ』などという奇特なことを瞬に言うことができるのは、瞬の兄くらいのもの。 瞬のために憎悪の心を捨ててみせるほど深く強く瞬を愛してくれる者が、兄以外にいるはずもないのだ。 もとより愛情など感じていなかった父。愛情を与えられたこともない父。 その父が、兄に血を流させた。 そして、兄の血は、忘れようとしていた憎悪と復讐心を、瞬に思い出させてしまったのだ。 血には血、憎悪には憎悪。 無慈悲な父にふさわしいのは、復讐の刃。 唯一の生きる希望だった兄を奪われた瞬は、父への復讐を決意した。 |