城の敷地の片隅に隠れるように建っている小さな館の部屋を出て、瞬は、彼の父でありミケーネ王国の王でもある男のいる王宮に足を踏み入れた。
王宮に入るのは半年振り。
昔も今も、国中から略奪してきた多くの女性たちをその周囲に置き、やがて飽きると城から放逐することを繰り返している父と顔を合わせたくなくて、瞬はよほどのことがない限り王宮には足を向けないようにしていたから。

「あなたに決闘を申し込みます」
これは、国政に関することではなく、極めて個人的な怨嗟による行為である。
瞬は父王に人払いを求め、ただ一人きりで父に対峙した。
「受けてくださいますね。でないと、僕は、憎しみにかられて、あなたを背後から刺し殺してしまいそうなのです」
それが、瞬の、極めて個人的な父への要望だった。
瞬の申し出を聞いた父王が、僅かに その目を.すがめる。
そうしてから、まるで瞬をなだめるように、彼は言った。

「おまえは、この国の王になりたいとは思わないのか。おまえの兄が亡くなった今では、我が王家を継ぐ権利を有する者はおまえただ一人なのだぞ。父殺しは重罪だ。私を殺せば、おまえもほどなく復讐の女神たちに その命を奪われることになるだろう。あるいは、この国の法に従って処刑される。おまえは死が恐ろしくはないのか」
死。
それこそが、瞬の望むものだった。
自分に課せられた務めを果たして、一日も早く、兄と母の待つ死の国に旅立つことが。
「僕は死など恐くはない。あなたは僕の希望を消し去ってしまった。あなたは、希望を持たない人間が生に執着することがあるとでも思っているんですか」

悪趣味なほどの数の宝石で飾られた椅子に腰をおろしている中年の男は、瞬の言の意味が全く理解できなかったらしい。
強張った表情の息子の前で、彼は鬱陶しげに その眉根を寄せてみせた。
「希望? そんなもので腹がふくれることはあるまい」
彼は“希望”というものが持つ力を理解していないようだった。
それは、すべての人間の生きる力の源であるというのに。
肉体的な飢えを満たすものがあっても、希望がなければ、その人間の心は死んでいるも同然。
希望を持てない人間は生きていることもできないのだということを。
「その点、王位は、おまえに ありとあらゆるものを与えてくれる」
もはや生きていることのできない人間に、瞬の父は誤った確信に満ちて、そう告げた。

だが、王位が瞬に与えてくれるものは、瞬が欲しないものばかりだということを、瞬は知っていた。
それは、瞬が本当に欲しいものを決して与えてはくれないのだ。
「僕がこの国の王位を継ぐ? この国の正当な跡継ぎを平気で殺した人が、僕にはすんなり王位を譲るというんですか? そんなことを、いったいどうすれば信じられるというんです」
「あれは悪魔に魅入られていた。先に、この父を殺そうとしたのはおまえの兄の方なのだぞ」
「嘘です。嘘でなかったとしても、兄さんにはそうするだけの正当な理由があったに決まっている」
「父を殺そうとする行為に正当な理由も不当な理由もあるか!」

ミケーネの王が苛立たしげに、まだ子供といっていいような息子を怒鳴りつけてくる。
だが、この国の絶対権力者であり残酷な暴君である男が、今の瞬は少しも恐ろしくはなかった。
この男に逆らい彼の機嫌を損ねたとしても、この男はもう、瞬を傷付けることはできないのだ。
その怒りが兄に向けられることを心配する必要も、瞬には もうない。
激昂する暴君を、瞬は――瞬こそが――見下すように、挑むように、めつけた。
そして、意味ありげな口調で、父に告げる。

「兄が死んで――あなたの息子は僕ひとりだけになってしまいましたね」
一瞬ひるんだ暴君を見て、瞬は、自らの優位を確信することになった。
「正直におっしゃったらどうです。あなたは、あなたがミケーネの王位に就いた時に下ったデルポイの神託を恐れている。確か、あなたは、あなたの息子が生きている限り死ぬことはないんでしたよね。息子が一人もいなくなった時が、あなたの命の尽きる時。僕が死んだら、あなたは息子を持たない身になり、あなたを待っているものは死だけということになる――」

『ミケーネの王となることが決まった幸運な男よ。王位に就いたなら、急いで息子を儲けるのだ。そなたに与えられた時間は3年だけ。その3年のうちに息子ができたなら、その者を大事にするがいい。そなたは、そなたの息子が一人でも生きている限り死ぬことはない。だが、そなたの息子がすべて失われた時、そなたはその瞬間から1日以上生きていることはできないだろう』
望んで叶わぬことのないミケーネの王。
人の心も人の命も、当然の権利として踏みにじることの許されたミケーネの王を縛る、唯一の枷。
それが、彼に下されたデルポイの神託だった。

予言の時から15年。
その間に、彼が得ることのできた子供は二人だけだった。
そして、その一方の命が、今は この地上に存在していないのである。
「僕と兄さん以外にも息子を作ろうと尽力されたと聞いていますが、その努力はすべて徒労に終わったとか。あなたの生への執着は、多くの女性を不幸にしただけ。僕たちの母は、あなたに不幸にされた、いったい何番目の女性だったんでしょう? 愛する夫を殺されて、夫の仇の妻にされ、憎い男の子供を産まされて、それでも彼女は僕たちを愛してくれたのに、あなたはそんな不幸な女性の命まで奪った」
あれ・・は、勝手に一人で死んでいったのだ!」
憤懣やる方ないと言いたげな口調で、ミケーネの王が言葉を吐き出す。
だが、瞬は、ミケーネの王がその視線を脇に逸らした一瞬を見逃すことはなかった。

「ええ。若い女性を王妃の座に据えようとした あなたに毒を盛られて」
「どこに、その証拠がある。事実、私は、あれが死んでも次の王妃を迎えなかったではないか」
「あなたが王妃に迎えようとしていた女性の懐妊が、医者の見立て違いだったことがわかったからでしょう」
それはミケーネ王の痛恨事だった。
通りかかった小さな村で行なわれていた ささやかな結婚の儀式。
幸福の希望で輝いている花嫁と花婿の姿に 訳もなく苛立って、彼はその場から花嫁を略奪し、彼の城に連れてきた。
彼女が彼女の夫に与えるはずだった処女を奪い、それきり忘れ去っていたら、ある日、王宮付きの医師が、その娘がつわりで苦しんでいるという知らせを持ってきたのだ。
父を嫌悪している息子たちとは違う、純粋な“希望”の出現に狂喜して、彼は早まってしまった――のである。

「この城を追い出される時、あの人は、自分には何の罪もないのに、僕と兄さんの許にきて、涙に暮れながら幾度も幾度も母への謝罪を繰り返していったんです」
「この私を糠喜びさせおって――あの娘は、私に殺されなかったことを感謝すべきなのだ!」
「あなたが たった今 僕を殺して下さったら、僕は心からあなたに感謝するでしょう」
そんなことをすれば、明日にはミケーネ王の命は失われている。
暴君には、父を憎んでいる息子を殺すことはできなかった。

「決闘の申し出を受けてくださっても、僕は同様にあなたに感謝します」
父子おやこでの決闘など、論外である。
その決闘で王が負ければ、王の命は失われる。
瞬が死んでも、王の命は失われる。
瞬の狙いは、むしろ後者なのだろう。
瞬が剣の持ち方を知っているなどという話を、ミケーネ王は聞いたこともなかった。
だが、彼は、この地上にたった一人しかいない彼の息子の命を、何があっても守りぬかなければならなかったのである。

「息子からの決闘の申し出を受ける父親がどこの世界にいるか」
「では、僕は、あなたを暗殺することになります」
「……」
兄の方はまだ父に似たところもあったが、弟の方は完全に母親にだけ似ている。
大抵の者が 少女と見間違う優しげな造作と華奢な肢体。
瞬は見るからに非力な子供だった。
野に咲く花の可憐に似た美しさの他には どんな力も持たない細く頼りない子供。
だが、この国のすべての人間の生殺与奪の権を持つミケーネ王の命は、この非力な子供の手に握られている。
切り札は、彼の非力な息子の手の中にあるのだ。

「できるものならやってみろ」
どうあっても瞬の命を守り抜かなければならないミケーネ王は、父を憎みきっている か細い息子に そう言って強がることしかできなかった。


――己れの命が他者に握られていることの恐怖。
多くの人間の命と幸福を奪ってきたミケーネ王は、自らの運命に怯えていた。
瞬を殺すわけにはいかず、勝手に死なれても困る。
その憎悪の心を忘れさせることは無理としても、死を選ぶことのできない状況の中に、瞬を置くようにしなければならない。
瞬の身の安全が保障され、瞬が早まった行動に出ることのない場所。
いずこかの神殿に押し込んで、いっそ瞬を神官にでもしてしまおうかと考え始めていたミケーネ王は、まもなく、この地上で瞬に最もふさわしい、最も安全な場所の存在を思い出したのである。

戦いの女神アテナの守護する聖域――。
人間の世界で最も強い者たちが集う場所に、瞬の身柄を預けてみるというのはどうだろう、と。
アテナに瞬の身を託せば、地上で最も強い力を持つ彼女の聖闘士たちが瞬の身を守ってくれるだろう。
聖域はミケーネ国内ではなくアテネの国にあるが、父への憎悪に燃えている息子と父親が、二人の間に距離を置くのはよいことに違いない。
そこは、父に追われて瀕死の有り様だった瞬の兄が救いを求めていった場所であり、瞬の兄の死地でもある。
そこで命尽きた瞬の兄の墓もまた、そこにあった。
聖域でなら、瞬も、兄の墓を守って静かに暮らすことを考えるようになるかもしれない――。

困難に出合って身動きがとれずにいる人間を救うのが、神の務め。
デルポイの神託をミケーネの王に下したのも、元はといえば予言の神の意を受けた神の巫女たち。
慈悲深い女神アテナには、窮地に立つミケーネ王を救い守る義務がある――。
ミケーネ王はそう考えて、女神アテナの支配する聖域に向かったのだった。






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