知恵と戦いの女神アテナの支配する聖域。
そこはミケーネ王の予想に反して、到底 華やかといえるような場所ではなかった。
大理石で造られた巨大な神殿は幾つもあったが、その敷地の広大さ・外観の壮大さに比して、その建物の内は何の装飾も施されておらず、驚くほど素っ気ない。
女神の御座所は 人間界の王の宮殿よりも はるかに――それこそ人智を超えた華やかさに包まれているものとばかり思っていたミケーネ王は、清浄というには あまりに何もなさすぎる聖域の様子に、大いに気が抜けてしまったのである。
が、こうであればこそ、手土産として運んできた宝石で満たされた長櫃ながびつの威力が期待できるというもの。
神に支配される聖域はこれでいいのだ、こうあるべきなのだ――と自身に言い聞かせ、ミケーネ王は、アテナに仕える巫女に案内された神殿の中に足を踏み入れたのだった。

その神殿の内部にも、幾本もの巨大な大理石の柱の他には茫漠とした空間があるだけだった。
何もない神殿の漠とした空間でミケーネ王を出迎えたのは、瞬の兄の死を見取ったという一人の若い男。
白鳥座の聖闘士ということだったが、アテナが彼女の聖闘士たちに下賜すると噂に聞く鎧は身につけておらず、彼はアテネの市民たちと大して変わらない衣服を身にまとっていた。
ヒマティオンをまとっていない分、アテネ市民より簡素な印象が強いほどである。

かなりの美貌――と言えるだろう。
その男は、異様なほど冷ややかな眼差しと尊大な態度の持ち主だった。
初めて会う男だというのに、ミケーネ王は、自分が彼に憎まれているのではないかとさえ思ったのである。
あらゆる人間にかしこまられることに慣れている王には、自分よりはるかに若い男の不遜な態度がひどく不愉快だったのが、相手は神の代理人なのだからと自身に言い聞かせ、彼は無理に引きつった笑みを作ったのである。

「以前、私の上の息子がこちらには大変迷惑をかけたと聞いている。そんなところにまた願い事となると、アテナも不快に思うかもしれないが――私の下の息子を聖域で預かってほしいのだ。礼はいくらでも出す。息子が生きている限り、定期的に聖域に櫃いっぱいの宝石を納めよう。ちょっとした誤解が元で、私の息子は父を憎むようになってしまったのだ。できれば、アテナの寛大な慈悲の心を説いて、息子に私への憎悪を忘れさせてほしい」
ミケーネ王は、若い聖闘士にそう言って、言葉より雄弁(と彼が信じているもの)を手で指し示した。

ミケーネ王が示したものを不愉快そうに一瞥し、白鳥座の聖闘士は僅かに眉をひそめた。
「このようなものを納めても、聖闘士の称号は得られるものではない」
アテナの聖闘士のその言に、ミケーネ王は少なからず慌ててしまったのである。
アテナの聖闘士の称号などという、そんな大層なものを、あの瞬に望むのは無謀の極み。
アテナが下賜する鎧どころか、その称号だけでも、瞬のあの細い身体には重過ぎる荷物だろう。
「そうではない。聖闘士にしてほしいというのではなく、ここに住まわせてやってほしいと言っているのだ。アテナとアテナの聖闘士の力で息子の身を守り、死なせないでほしいと。死なせさえしなければ、口のきき方も知らない何の役にも立たないような子供だが、どう使ってくれても構わん」
「役に立たないものをどう使えというのだ。聖域は、親の手に負えなくなった厄介者を預かる場所ではない」

どう見てもミケーネ王の半分も人生を生きていない若造の尊大な口振りを、ミケーネ王は、鼻持ちならない生意気と思った。
が、いつもの調子で、この生意気な若造を罵倒するわけにはいかない。
この男はミケーネの国民でもミケーネ王の奴隷でもないのだと自身に言い聞かせ、彼は懸命にその衝動を耐えたのである。

「何の役にも立たない厄介者だが、使いようはあるということを知らせたまで。あれは美しい」
「意味がわからない」
「見ればわかる。あれは、父親の私が欲情するほど清らかで美しい。男なら誰でも汚したくなるような風情をしているのだ」
「……」
ミケーネ王の言わんとするところを、白鳥座の聖闘士はやっと理解した――らしい。
彼は不快の念を隠そうともせず、あからさまに その眉をひそめた。

「清らかだから汚したいとは――。清らかなものは 清らかなまま守りたいと考えるのが、普通の人間の感覚なのではないか? 貴殿が正気で言っているとは思えない」
神に選ばれたアテナの聖闘士といえど――だからこそ? ――、所詮 綺麗事しか知らない青二才である。
ミケーネ王は、内心で、アテナの聖闘士をせせら笑った。
「見ればわかる。見てみたいとは思わぬか」
「そのご子息を貴殿の側に置くのは好ましいことではないということはわかった。聖域は、ミケーネ王の子息を預かることにする」

この若造は いちいち嫌味を言わずにはいられないのかと苛立ちを覚えはしたが、どうやらミケーネ王の望みは聖域に受け入れられることになったらしい。
それで、ミケーネ王は満足することにしたのである。
余計なことを言って聖域の決定が翻される事態になることを恐れたミケーネ王は、生意気な若造に形ばかりの礼を告げると、その足で彼の国にとってかえした。
『兄の墓に詣でて、冷静になってこい』と尤もらしい理由をつけて、ミケーネ王が瞬を聖域に送り出したのは、それから僅か3日後のことだった。






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