瞬の兄の墓は、かつて地上の平和のために戦い、命を落とした聖闘士たちの墓所の傍らに ひっそりと佇んでいた。
本来はこの場に葬られる資格を有していない兄。
それは聖域の厚意で作られたものだったのだろうが、瞬はその墓の前に立つなり涙があふれてきて、聖域の厚意への謝意を示すこともできなかったのである。

なんとか嗚咽以外の言葉を口にできそうな状態になってからやっと、瞬は、自分をここに案内してきてくれた男の方に向き直った。
だが、その男に礼を告げる前に、自分がミケーネ国王からの依頼によって、今日から聖域内で暮らす手筈になっていることを知らされ、瞬は彼に謝意を伝えるどころではなくなってしまったのである。
自分が父の策にはまったことを知り、瞬は唇を噛んだ。
あの男が何をどんなふうに言ったのかは知らないが、その言葉を真に受けて、自分をこの場所に閉じ込めようとしている聖域をなじってやりたい気持ちが湧いてくる。

瞬がその気持ちを言葉にしなかったのは、彼を兄の墓にまで案内してきてくれた聖闘士が、なぜか懐かしさを感じさせるような不思議な青い瞳をしていたから――だった。
その瞳に見詰められているうちに、瞬の中の反抗心は萎えてしまったのである。
その聖闘士が、ミケーネ王に対して良い印象を抱いていない態度を示したからでもあったろう。
その若い男の美貌に驚いたせいもあったかもしれない。

聖域は平和で静かな場所だった。
戦いを生業なりわいとしている者たちの集う場所だというのに。
そして、戦いの女神が守護する場所だというのに。
アテナの結界が敷かれた聖域の内に小さな家を与えられ、ミケーネ王からの預かり物はしばらくそこで暮らすことになっていると、瞬は彼に知らされた。


「あの男は愚かだ。あの男は、距離を置けば、僕の憎しみが薄らぎ、我が身の安全が守られると、本気で考えているのか……!」
「……」
兄の墓の前では涙に暮れ、一人で立っていることもできないような様子をしていた小さな少年──。
その少年が、これから彼の住まいになる家の小さな部屋に案内され、自身のこれからの処遇と、その処遇を画策した人物が誰であったのかを知らされるや、憎々しげな口調でそう告げるのに、白鳥座の聖闘士は――氷河は――、驚きと痛ましさを感じたのである。

ミケーネ王が言っていた通り、王の息子は確かに美しい少年だった。
姿は花のように清楚で可憐。
父親を『あの男』と呼び、発する言葉は呪詛めいてさえいるのに、その印象は、“あの男”が言っていたように清純そのもの。
ミケーネ王は彼の息子の風情を『清らか』と評していたが、彼の言葉の選択は実に的確だった。
人の目に 瞬をそう見せているものは、その唇が発する言葉に反して、その瞳が憎しみではなく悲しみだけをたたえているように見えるから。
この“清らか”な者を、守りたいと思うならともかく、汚したいと考えるのは、あの下劣な王くらいのものだろうとも、氷河は思ったのである。

「なぜここにミケーネの王子が送り込まれることになったんだ?」
氷河に尋ねられると、瞬は はっと我にかえったような表情になり、それから一度きつく唇を噛みしめた。
「僕の望みが父を殺すことだからでしょう。父は僕の兄の仇です」
父王への呪詛を口にしていた時よりは丁寧な言葉を用いて、瞬が氷河の質問に答えてくる。
もっとも、その声音には、抑えきれず隠しきれていない怒りが、まだ少し残っていたが。

「君の父親は、君の身を案じているようだった。死なせることだけはしないでほしいと、繰り返し言っていた」
「当然でしょう。彼はデルポイの神託を恐れている。あの暴君は、あの男の息子が生きている限り死ぬことはないという予言の神の神託を受け、息子の命が消えることを、何より恐れているんです。なのに、あの卑劣な男は僕の兄の命を奪ってしまった。彼の息子は今は僕ひとりだけになってしまったから、僕に死なれるのは困る。それだけのことです。あの男が僕の身を案じているなんて、とんでもない誤解だ。あの男が案じているのは、いつだって自分のことだけなんだ」
実の息子に そう断言させてしまう父親。
ミケーネ王のこれまでの息子に対する愛情のほどが偲ばれて、氷河は内心で嘆息することになったのである。

「あの男の言い分を信じて、僕をこんなところに閉じ込めようとするなんて、聖域は愚かな決断を下したとしか言いようがない。ミケーネ王の暴君振りを聖域は聞いていないんですか。彼は毎日、彼を憎んでいる息子の姿を見て、怯えて暮らしていたほうがいいのに……!」
「――」
人間は、自分と他者を愛する権利と共に、憎む権利をも有していると思う。
ミケーネ王の息子が彼の父を憎む心を止めることは誰にもできないだろう。
だが、それでも氷河は、この“清らかな”少年には、できれば憎悪などというものとは無縁でいてほしいと願わずにはいられなかったのである。
権利がどうこうと言う前に、この花の風情に、呪詛の言葉や憎悪の感情は似合わない・・・・・のだ。

「顔に似合わず きついことを言うものだ。その決断を下したのは、俺だ。氷河という」
「あ……」
知らずにしたこととはいえ、本人の目の前で、愚かな決断を下した当人を非難してしまったことに、瞬は気まずさと気後れを覚えたようだった。
聖闘士の持つ力を聞いたことがあるのなら、その気後れの中には恐れも含まれていたかもしれない。
ギリシャ世界で最悪と言われる暴君には絶対の優越を有している人間も、この聖域では──アテナの聖闘士に対しては──無力な子供にすぎないのだ。

「兄の墓の前で泣き崩れていた君と、父に呪詛の言葉を投げ、聖域を愚かと言い切る気丈な君と、どちらが真実の姿なのか――」
もちろん氷河は、聖域とアテナの聖闘士の判断を非難する不幸な少年に 聖闘士の力を用いようとは思わなかった。
瞬が、白鳥座の聖闘士に沈黙の答えを返してくる。
聖闘士の力を恐れたからというより──瞬自身にも、それは答えにくいこと、答えのわからないことだったのかもしれない。
氷河も瞬に答えを強要するようなことはしなかった。

「俺は、自分が判断を誤ったとは思わない。こうして君に直接会って、その確信を強くした。“あの男”の側にいると、君の清らかさが損なわれる。心が擦り切れて、すさんで――君は、兄の復讐など考えない方がいい。君には、復讐などという物騒なことは似合わない」
「あなたに何が──」
「たとえ君の復讐が成ったとしても、その後、君を待っているのは、父殺しの罪人として処刑されることだけだ。たとえ人の法の裁きからは逃げることができたとしても、逃げることの叶わない復讐の女神たちエリニュースに世界の果てまで追いかけられて、結局は君は父殺しの罪を自分の命で償わなければならなくなる」

死には死を。
それが復讐の女神たちの、例外を許さない決まり事である。
兄を殺された弟には、もちろん兄の敵を討つ権利が与えられる。
罪なき人を殺した者には、死の報いがあって当然なのだから。
だが、その権利を行使した者にもまた、同じルールが適用されるのだ。
父殺し母殺しは、理由の如何を問わず、最も呪われた罪の一つだった。

「構いません。僕は僕の希望と幸福を失った。その二つを持たない者が、生きていることを望むと思いますか。希望を持たない者が生きていて何になるの。僕が生きているのは、父に恐怖を与えるため。いつか最も効果的に、死んでやるためだ。僕はもう、そういうふうにしか自分の生を生きられない。兄さんがいないのに……兄さんがいなかったら、僕はもう二度と幸福にはなれない……!」
人を愛し愛されるために生まれてきたようなこの少年は、父を愛することができなかった分、その愛情のすべてを兄に向けてきたのだろう。
だからこそ、兄を失った嘆きも深い。
嘆きが深ければ深いだけ、彼から兄を奪った者への憎悪が増す――。

それは、自然な心の働きといえるものだろう。
だが、人は時に、自然を捩じ伏せて生きていかなければならないことがあるのだ。
人は社会というものを作り、その中で多くの人間たちと影響し合いながら生きていかなければならない“動物”なのだから。

「人は、新しい希望を見い出すことができる。絶望に出合ったら、新しい希望を探し出し、その希望から力を得て、生きていこうとするのが人間だ」
「新しい希望なんかいらない! そんなものがあったら、死ぬのが恐くなる」
そんなふうに すべてを諦めたようなことを瞬が口にしてしまえるのは、瞬が、人の作った社会の中で生きていないからである。
皮肉なことに、瞬は、兄を失うことで、自分と兄の二人だけでできている世界に引きこもることになってしまったのだ。
だから、瞬は、人が作った規律や神が定めた約束事を 恐れる必要がなくなってしまっている。
この絶望という病が更に進行すれば、瞬はやがて自分の外にある世界そのものを見なくなってしまうだろう。
幸いなことに、瞬は、今はまだ、外の世界への関心を完全には失っていないようだったが。

「僕は──聖闘士というのは、僕と同じ生き方を選んだ人なのだと思っていました。希望を捨てることで、死を恐れぬ心を養い、戦う――」
「聖闘士は、君の言うそれとは真逆のものだ。むしろ、自らの希望を追い続け、人に希望を与え続けるのが聖闘士というものだといっていい。君も――そうした方がいい」
「希望は持ってますよ。一つだけ。復讐の成就という希望を。その希望を叶えて、人の作った法か復讐の女神に この命の火を消してもらって、僕は死の国に行く。そこには兄がいて──兄を殺された弟の務めを果たした僕を褒めてくれるでしょう。今となっては、それが僕の唯一の希望です」

「それは希望とはいわない」
白鳥座の聖闘士が、まるで彼自身が絶望の中にいるように重苦しい口調で、短く言う。
そんなことは、瞬とてわかっていたのである。
わかってはいても──今の瞬には、希望を持つことが何よりも恐ろしいことであり、それは何があっても避けなければならないことだったのだ。
「そうでしょうね」
瞬は、自嘲気味にそう言って、空虚に笑うことしかできなかった。






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