聖域での瞬の生活は、至極穏やかなものだった。 ミケーネの王宮の片隅でひそやかに暮らしていた時と大した違いはなかった。 ──見た目の暮らしぶりは。 だが、瞬の心の内までもが穏やかだったかというと、それは完全に事実に反していた。 それでなくても父への憎しみで荒れ狂っていた瞬の心の中に、氷河という別の嵐が入り込んできたのだ。 それは、瞬の心の中の嵐を殺そうとする嵐だった。 静かで、穏やかで、動きのない嵐──。 だが、荒れ狂う波が、頑として動かない大岩に出合ってしまったら、嵐はなおさら大きく弾け、狂わなければならなくなるものである。 一見したところは何の変哲もない穏やかな日常。 しかし、瞬の心は、“平和な”聖域で、ミケーネにいた時よりも はるかに強く大きく、揺れ乱れることになったのである。 氷河は、ミケーネ王が聖域に押しつけたものの世話を任されているらしく──あるいは、彼が自発的に その役目を買って出たのかもしれなかったが──毎日瞬の許を訪ねてきた。 アテナの聖闘士は希望の聖闘士──人々に希望を与える聖闘士。 絶望しかけている子供に、彼は、懸命に新しい希望を見付けることの意義を説いてくれた。 そうすることが瞬のためなのだと信じて。 氷河のその気持ちがわかるから──彼の考えの正しさもわかるから──瞬は、彼といると居心地が悪くてならなかったのである。 氷河は綺麗な青い瞳をしていた。 彼に悪意がないことは、瞬にもわかった。 瞬を見詰める彼の瞳にたたえられているものは瞬への同情と優しさで、そこに我が身の益を図ろうとする気配は全くない。 彼は純粋に、瞬の行く末を案じてくれているようだった。 彼の厚意をありがたいと思う一方で、もしこれこそがミケーネ王の狙いだったとしたら、そんな魂胆に乗せられてなるかという反発心が生まれ、瞬は、どうしても氷河に対して素直になることができなかったのである。 そんな日々が ふた月も続いただろうか。 ある日、瞬の許にやってきた氷河は、いつまでも頑なな心を守り続ける瞬を見詰め、痛ましげな目をして、父を憎んでいる息子に尋ねてきたのである。 「おまえの復讐が成ったら、おまえは死ぬ。おまえが死んだら、俺は悲しむ。おまえはそれがわかっているのか?」 「え?」 それまでは、命の尊さばかりを訴え、『おまえが捨てようとしているものを欲している人間がどれだけいるものか』『それはいつでも好きな時に捨てられるものだが、欲した時には必ず得られるとは限らないものだ』等々の論調で、瞬に新しい希望を持たせようとしていた氷河。 その氷河が、自身の心に言及したのは、それが初めてだったかもしれない。 氷河は、悲しげな目で瞬を見詰めている。 瞬はまだ、兄の復讐のために その命を捨ててはいないというのに、既に彼は悲しんでしまっている。 瞬の目には、氷河の様子がそんなふうに見えた。 瞬は氷河の言葉に驚き、だが、すぐには彼の言葉を信じることができなかったのである。 というより、瞬は、そんなことを考えたことがなかったのだ。 これまで ただの一度も。 ただの一瞬も。 「き……綺麗事を言わないで。僕の死を悲しんでくれるのは、死んだ人たちだけだ」 「おまえの命が失われることを、兄と母しか悲しまないと思うのか」 「……」 そのはずだった。 瞬の命を気にかけていてくれる人間は他に誰もいない。 そう、瞬は信じていた。 だというのに、氷河はもう一度 その言葉を口にした。 「俺は悲しむ」 「嘘だ」 「信じないのなら、それでもいい」 もはや 氷河の唇は、溜め息すら吐き出さない。 自分はそんなにも この人を悲しませて――もしかしたら絶望させて?――いるのかという不安は、瞬の心を苛むことになったのである。 悪意も底意もなく、不幸な少年に新しい希望を持ってほしいと願ってくれているだけのこの人を――と。 氷河の思いがけない言葉が瞬の中に生んだものは、希望ではなく、罪悪感だった。 その罪悪感に突き動かされて、瞬はつい言ってしまったのである。 「し……信じないわけじゃないけど……」 と。 「信じないわけじゃないけど、なぜ氷河が悲しむのかがわからない。僕は氷河にとっては、ただの赤の他人でしょう」 そう言いながら、瞬は気付いたのである。 自分の中に、その言葉を――『赤の他人』という言葉を――否定してほしいという“希望”があることに。 初めて――気付いた。 だが、氷河は瞬のその“希望”を叶えてはくれなかった。 代わりに彼は、彼自身のことではなく、彼以外の人間たちのことを持ち出してきた。 「綺麗で、本当は善良な心の持ち主で、そうしようと思えばいくらでも幸福になれるはずの人間が、自ら不幸になろうとしていたのを見たら、誰でも悲しいことだと思うだろう」 「誰でも?」 知りたいのは、氷河の心だった。 氷河以外の人間たちの心など、語られる前からわかっている。 氷河の他には、生きている人間たちの中に、瞬の死を悲しむ者はいないのだ。 いないことを、瞬は知っていた。 「そうなのかもしれない。それが僕でなかったら――それがミケーネの民でなかったら……。これまで氷河以外に、僕に『生きろ』と言ってくれた人は一人もいなかった。僕が死ねば、あの暴君も死ぬことになるから、ミケーネの人間は誰もが僕の死を願っているんだ」 だから、瞬が知りたいのは氷河の心だけだった。 氷河が、静かに首を横に振る。 「それなら、おまえはとうの昔に殺されていたはずだ。ミケーネの民たちは皆、おまえには罪のないことを知っているから、おまえの命を奪おうとはしなかったんだ。どんなにミケーネ国王を憎んでいても。それも……愛だと思うが」 「愛?」 「もしかすると、恋や肉親間の愛よりも気高い愛だ。憎しみよりも強い愛」 「憎しみよりも強い――?」 『おまえがいたから――復讐の成就より、おまえを幸福にすることの方が何倍も大事だから、俺は奴に復讐することをやめたんだ』 その時、瞬は、兄の言葉を思いだしたのである。 氷河はおそらく、兄と同じことを言っている。 瞬の兄ではない――それこそ“赤の他人”が、瞬のために憎しみを忘れてくれて――少なくとも忘れようと努力してくれて――いるのだと。 それは瞬にはできなかったことだった。 瞬には憎しみを忘れることはできなかった。 そうする強さと力を、ミケーネの民たちは持っていたというのだろうか――? 氷河が事実を告げていることは、瞬にはすぐにわかった。 父王を避け、衛兵もいない王宮の片隅にある館で ひっそりと暮らしていた瞬を殺すことは、誰にでもできた。 瞬の身の周りの世話をしてくれていた非力な女官にでも、それはたやすくできたはずのことだった。 瞬が死ねば その父も死ぬのだから、殺害者は暴君の処罰を恐れる必要もない。 にもかかわらず、瞬は今も生きている――殺されていない。 瞬が今 こうして生きているということは、そういうことだった。 「みんなが、僕のために耐えてくれていたの……」 氷河は無言で瞬を見詰めていた。 ミケーネの民ではない氷河にさえ見えていたことが、当の本人には見えていなかった。 否、瞬は見ていなかったのだ。 瞬は、自分の悲しみと憎しみしか見ていなかった。 最も目を背けるべきもの――あの父をしか、瞬は見ていなかったのだ。 「そうなの……。僕を愛してくれているのは兄さんだけだと思っていたのに、そうじゃなかったの……」 優しく強い心を持つミケーネの民たち。 故国から遠く離れた場所で彼等に思いを馳せ、瞬の瞳は涙で覆われ始めていた。 だが――だとしたら、だからこそ。 「なら、なおさら僕は、彼等のためにも早く死んでしまわなくては」 彼等の愛に気付かずにいた者が その愛に報いるためには、自らの命を投げ出すことしかできないのだから。 それまで無言で瞬を見詰めていた氷河が、苛立たしげに口を開く。 「おまえは本当に愚かだ。おまえこそが愚かだ。いい気になって一人で死んで、おまえは彼等のこれまでの忍耐を無にするつもりか。おまえが死んだら、ミケーネの者たちは悲しむだろう。俺より悲しむかもしれない」 「でも、僕が生きていては――」 「おまえは生きていなければならない。おまえを愛している者たちを悲しませないために」 「氷河も……」 氷河も悲しんでくれるのかと、瞬はもう言葉にして確かめることはしなかった。 愚かな人間の死を、氷河は悲しんでくれるのだ。 この青い瞳で。 「あ……」 その瞳を見詰め──瞬は、突然、理由のわからない目眩いに襲われたのである。 今でも既に悲しみをたたえているような この青い瞳が 更に悲しみをたたえたら、それはいったい どんな色になり、どれほどの深みを呈することになるのかという考えは、瞬に息が詰まるような苦しみをもたらした。 だが、それとは別に――氷河の瞳の中の悲しみとは違う何かが、突然 瞬の心の内に苦しみとは別の何かを運んできたのである。 その“何か”に無理に名をつけるとすれば、それは『懐かしさ』という言葉が最もふさわしいように思えた。 瞬は、この聖域にやってくる前に、どこかでこの瞳に出合ったことがあったような気がした。 生まれた時から この瞳を知っているような、そんな錯覚をさえ覚えたのである。 それは錯覚のはずだった。 氷河のように印象的な人間に、一度でも会ったことがあったなら、その者は一生 彼を忘れることはできないに違いないのだ。 だが、それでも瞬は、以前どこかで この瞳に出合ったことがある──この瞳に見詰められていたことがあったような気がしてならなかった。 「僕……どこかで氷河に会ったことがある……?」 「会っていたかもしれないな」 そんなことがあるはずがないのに──氷河が、はっきりした否定ではなく、曖昧な答えを返してくる。 そんなことはありえないのに──この 切ないほどの懐かしさはどこからやってくるのか──。 瞬は、自分の心臓が異様な速さで波打っていることに気付き、その事実に戸惑い、そして、身体を強張らせた。 氷河は、その存在自体が、瞬にとっては危険な誘惑だった。 瞳の懐かしさの謎を投げかけてくるだけでも──その謎を解きたいという心の働きは、『生きていたい』という思いに通じる。 あの瞳の悲しみの色を更に深めたくないという願いも、『生きていたい』という思いに通じていく。 自分を気にかけてくれている人がいて、その死を悲しんでくれる人がいる。 それだけでも、人が生きていく理由としては十分なのに、氷河は更にその瞳で瞬の心に揺さぶりをかけてくるのだ。 (でも、それは、氷河が聖闘士だから……。人に希望を与えるのが聖闘士で、氷河はその務めを果たそうとしているだけで、僕に対してだけのことじゃない) ミケーネ王の依頼を受け、瞬を聖域に迎え入れる判断を為した責任というものも、氷河にはあるだろう。 (きっと氷河は、誰にでも ああいう目を向けるんだ。僕だけじゃない、きっと誰にでも、氷河は──) 希望の聖闘士が、すべての人に希望を持たせようとする。 “すべての人”の中の一人である瞬にも 希望を持ってほしいと、氷河は願う。 それは当然のことで、自然なことでもある。 氷河は氷河に与えられた義務を果たそうとしているのであって、それは余人に責められるようなことではない。 だというのに、氷河の青い瞳が見詰めているものは自分だけではない──という事実は、瞬の心を切なく締めつけた。 氷河の厚意を素直に信じたいと思うし、既に信じてもいるのに、『信じてはならない』と自分に言い聞かせなければならない自分が、瞬は悲しくてならなかったのである。 |