聖域の西の端に、小高い丘があった。
以前は見張りのための建物が置かれていたのか、大理石の太い柱や台座が、乾いた大地のそこここに転がっている。
おそらく、聖域の力が増すにつれ、見張りの類は必要なくなったのだろう。
見ようによっては、そこは廃墟と言える場所だった。
だが、明るいギリシャの陽光を受けて輝く建物の残骸たちは、まるで自分たちの務めを終えた誇りに輝いているような、あるいは自分たちの復活の時を信じているような、そんな印象を 見る者に与える。
要するに、そこは、明るい廃墟だった。

丘自体は、聖域の西方、ミケーネのあるペロポネソス半島の方角に臨んでいる。
兄のいない故国を見ることも思うこともつらくて、聖域に来てからの瞬は、故国のことを意識して避けているところがあった。
その故国に繋がる空のある場所に 瞬が足を向ける気になったのは、彼の故国が、憎い父のいる場所、今は愛する兄のいない場所であると同時に、ミケーネの民がいる場所でもあるのだということに、彼が気付いたからだった。
そこが、自分のために憎しみを捨ててくれた者たちのいる場所なのだということを、氷河によって気付かされたから。

自分の人生に関わってくる人間はもう あの無慈悲な暴君しかいないと、瞬はこれまで信じていた。
そうではないことがわかって――そうではないことがわかったという事実自体は幸福なことだと思うのに、そうではないことがわかってしまったせいで――瞬の中には迷いとためらいが生まれてしまったのである。
瞬は、これから自分がどうすべきなのかが わからなくなってしまっていた。
自分の未来には もう“復讐”と“死”しかないと信じていたのに、瞬の心の片隅では『生きていたい』という気持ちが生まれ始めてきている――。

『どうしたいのか』と問われれば、今では、『生きていたい』というのが、今の瞬の答えだった。
だが、『どうすべきなのか』と自問すれば、『死ぬしかない』という答えに行き着く。
それが、兄のため、母のため、そして、父のためでもあると思う。
これ以上父に罪を犯させないためにも――自分は死ぬべきだと思う。
だが、氷河を悲しませたくないのだ。
氷河に、自分のせいで悲しんでほしくない。
氷河のあの瞳の青が 悲しみの色に沈むことを思うだけで、瞬は、思い切り泣いてしまいたい衝動にかられた。
そして、この廃墟にあるものたちのように、死んで なお生き続ける術はいなものかと、叶わぬ夢を追ってしまうのだ。
父のため・・には死を、氷河のためには生を。
生と死の両方を同時に実現することはできないものか――と。
白く乾いた大理石の柱にもたれかかりながら、瞬は、どう考えても人間には実現不可能な夢を夢見ていた。

そんな夢を夢見ながら――ふと視線を投げた明るい廃墟の片隅に、小さな白い花が咲いていることに瞬は気付いたのである。
聖域は、ミケーネよりはるかに乾燥した土地だった。
そんなところにも花が咲いている。
仲間もなく一輪だけ、寂しげに、だが、懸命に――。
その姿に惹かれて、瞬は、小さな白い花に向かって、小さな声で問いかけてみたのである。
「僕、どうしたらいいのか、わからないよ……」

もちろん 花からの答えはなかったのだが――植物には過酷なこんな場所で、それでも懸命に生きようとしている花の風情は、それだけで一つの答えを提示しているような気がした。
花は誰かを憎むことはない。
そして、誰かのために生きるということもしない。
『自分のために生きる』のが花の生き方。
けれども、それは、瞬には真似のできない生き方である。
瞬は、死ぬのなら誰かのために死にたかったし、生きるのなら誰かのために生きたかった。
強くて孤独な花の答えは、瞬の心を悲しくさせることしかできなかった。






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