何かが自分に触れていることに 瞬が気付いたのは、それからしばらく――だが、どれほどなのかはわからない――時間が経ってからのことだった。
廃墟の柱にもたれ、花を見詰めて迷いあぐねているうちに、瞬はいつのまにか うたた寝をしてしまっていたらしい。
うとうとと眠っていた瞬の意識を揺り起こしたのは、氷河の気配だった。
早まったことをしているのではないかと瞬の身を案じて、氷河はこんなところまで迷子の子供を捜しに来てくれたのだろう。
おそらくは、彼こそが瞬を迷わせているのだという事実を知りもしないで。

『ありがとう』『ごめんなさい』『もう僕を迷わせないで――』
彼にどんな言葉を投げかけるべきなのかがわからなくて――瞬は、彼に自分が目覚めていることを知らせることができなかったのである。

陽光にさらされて白さを増している大理石の柱に頭と肩を預けて目を閉じている瞬の側に、氷河が静かに歩み寄ってくる。
瞬の髪に触れ、頬に触れ、迷子がまだ生きていることを確かめると、彼は安堵したようだった。
あの青い瞳が自分を見詰めているのが、瞬にはわかった。
それが心地良く、つらい。
目を閉じていても感じられる氷河の視線が、瞬は、つらくて、苦しくて、だが、快かった。
いっそこのまま永遠に時が止まってしまえばいいのにとさえ、瞬は思ったのである。
そうすれば、この快さの中で、自分は つらい“答え”を出さなくても済むのに――と。

が、やがて、あの何でも見透かしてしまうような氷河のあの瞳が、自分の空寝入りを見破れないはずがないという不安が、瞬の胸の内に生まれてくる。
氷河に気取られる前に早く目を開けてしまわなければと、瞬は焦った。
焦りはしたのだが、しかし、目を開けて、彼にどんな言葉を告げればいいのか――。
その言葉を見付けだせないせいで、瞬は、その瞼を開けることができなかった。
心ばかりが焦って、時間の過ぎるのがひどく遅いように感じられてならない。

そうして。
叶わぬはずの夢が叶って、本当に時間はその歩みを止めてしまったのではないかと、瞬が疑い始めた時だった。
焦れて震えている自分の瞼に 氷河の唇が触れた――ような気がしたのは。

(え……?)
目を開けて、確かめたいのに確かめられない。
だが、それは確かに唇の感触だった。
すぐに、その感触は、瞬の上から消え去ってしまったのだが。
次に、瞬に触れてきたものは、
「こんなに綺麗で可愛いのに」
という、氷河の呟きだった。
「かわいそうに」
(あ……)
彼は 憎しみという希望をしか持たない孤独な子供を哀れんでいるだけなのだと、自分に言い聞かせるほどに、瞬の心臓が大きく高鳴る。

もちろん彼は不運な子供を哀れんでいるだけなのだ。
もし彼がミケーネ王の息子に対して憎しみや軽蔑以外の思いを抱くことがあるとしたら、他の どんな感情を抱くことがあるというのか。
せいぜい彼の厚意に逆らい続けてきた子供の我意の強さに 呆れ辟易する思いくらいのものだろう。
それはわかっていた。
わかっているのに、瞬の胸は高鳴った。

『かわいそうに』
そんな呟きを呟いてくれるということは、少なくとも氷河は、暴君の息子を憎んではおらず、彼の意に逆らってばかりいた子供を嫌ってもいないということである。
氷河に憎まれても嫌われてもいない――。
それだけのことが――それだけで十分に――瞬には、心が震えるほどの大きな喜びだったのである。

氷河は、瞬が目覚めていることに本当に気付いていないようだった。
『すべてを見透かしてしまうような』と瞬が思っていた あの瞳の持ち主が、まるで何か別の――彼一人だけの思いに気を取られてしまっているかのように、瞬の意識があることに気付いていない。
彼は今 いったいどんな思いに囚われているのかを確かめたい――と、瞬は思ったのである。
強く、そう思った。
目を閉じているのが苦しい。
だが、恐くて目を開けることもできない。
少しでも早く目を開けて、少しでも早く彼の側から離れないと、こんなにも強く大きく波立っている心臓の音を、氷河に聞かれてしまう――。
心は急いているのに、瞬の身体は微動もできないほど硬直し、瞬の意思に逆らい続けるのだ。

それは不思議な感覚だった。
心臓だけが生きていて、身体の他のどんな部分も死んでしまっているような、不思議な感覚。
瞼を開けることのできない瞬に認識できるのは自分の心臓の音と動きだけで――それは長い時間をかけて少しずつ、平生の速さと強さに戻っていったのである。
そうして、瞬が勇気を奮い起こして なんとか目を開けた時、氷河は既に瞬の側にはいなかった。
瞬のいる場所から少し距離を置いたところにある柱に 身をもたせかけ、彼は静かに瞬を見詰めていた。
何もなかったかのように――あの青い瞳が瞬を見詰めている。
『その瞳の中にあるものを確かめたい』
自分の中にある抑え難い願いに突き動かされて、瞬は氷河の側に歩み寄り、彼の瞳の中を覗き込もうとした。
途端に、氷河が、その視線を脇に泳がせる。
「あ……」

結局、瞬は、何も確かめられず、もちろん彼に何事かを告げることも尋ねることもできなかった。
そうして、瞬は、先に立って丘をおり始めた氷河の後を追うことになったのである。
無言で。
無言でいることを、ひどく切なく感じながら。






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