氷河は瞬に、彼の何をも確かめさせてくれない。 瞬の知りたいことを尋ねさせてもくれず、もちろん答えも与えてくれない。 だが、だからこそ、瞬の五感と意識は彼に向かうことになったのである。 瞬は、氷河のその瞳とその心の中にあるものが気になって仕方がなかった。 どんなことでもいいから、氷河の何かを知りたくてならなかった。 彼の何も知らず、何も確かめられないことが、瞬の心を不安にした。 そして、その不安は、瞬の感情と意識を氷河に向かわせていくことになったのである。 氷河の心の中にあるものの姿を見たい。 その瞳の中にたたえられているものの意味を見極めたい。 自分が氷河にとってどういう存在であるのかを知りたい。 氷河が自分にとっての何者であるのかを知りたい。 氷河を知りたい――。 自分の胸中にそんな“欲”が生まれ始めていることに気付いた瞬間、瞬はそんな自分に戦慄したのである。 罠だ――と、瞬は思った。 氷河が仕組んでいるのか、彼ではなく神か、それに類する力が仕組んでいるのかはわからないが、これは卑怯な罠以外の何ものでもない。 復讐者に復讐を忘れさせるための。 憎悪ほど強い力はないと思っていたのに、その憎悪をさえ忘れさせてしまうような、この強大な力。 その力の前に膝を屈してしまいたいと騒ぐ自身の心に、瞬は幾度も大きく首を横に振った。 そんな力に屈してしまったら、そんな力に囚われてしまったら、生きていたくなるに決まっている。 死ぬことが恐くなるに決まっているのだ。 (どうして……) 聖域で瞬に与えられた小さな家の小さな部屋、そこにある小さな寝台の上で、瞬は、この皮肉の残酷さに身悶えたのである。 兄が生きている時には、父への憎悪を忘れようと努め、それでも忘れられない自分の卑小さを嘆きながら日々を過ごしていた。 兄が死んでやっと、瞬は、父への憎悪を無理に忘れようとしなくてもいい状況に身を置けるようになった。 だというのに、そうなった途端に、こんな罠を仕掛けてくる運命の皮肉。 人は皆、自分の思う通りにならない心に苦しむために この世に生を受けるのではないかと思わずにいられない、生のこの残酷。 泣くことも憤ることもできず――瞬は、その夜、故国から遠く離れた部屋の片隅で、まんじりともできなかった。 その上、瞬のそんな苦悩など何ほどのものでもないというかのように、昨日と同じように やってくる朝。 瞬の無力、瞬の苦しみの無意味、瞬という存在の無価値を謳うように明るく希望に満ちた朝の光。 新しい命や命の再生を思い起こさせる暖かく眩しい朝の陽光――。 そんなものを美しいと感じてしまってはだめなのだと、 この朝は、この世界は美しい――そんな気持ちを抱いてしまったが最後、生きている人間は死を選ぶことができなくなるだろう。 それは、あの残酷な男のために死んでいった者たち、あの暴君に虐げられている者たちへの裏切りになる。 それは、決してあってはならぬことだった。 だというのに、瞬の心は、その持ち主の意思にどこまでも逆らい続けるのだ。 瞬の上に降り注いでくる眩しい力は、やはり、父への憎しみより強く大きな力を持っていた。 「だめだってば! 氷河を好きになったりしちゃだめっ!」 自分の意思に逆らう心に抗うために、瞬は声に出して叫ばずにはいられなかったのである。 叫んでしまってから初めて、瞬は、自分を迷わせている力がそういうものなのだということに気付いた。 父に向かう憎しみの力を弱めていく 自分を迷わせている力の正体に瞬が気付いた、ちょうどその時だった。 氷河が瞬の家の扉を開けて、瞬の前に姿を現わしたのは。 「あ……」 運命はどこまでも瞬を迷わせ苦しめようとしているらしい。 独り言にしては大きすぎた瞬の叫びは、氷河の耳にも届いてしまったようだった。 驚きに目をみはった氷河に出会って、瞬の身体中の血が うねるように逆流する。 羞恥と混乱を瞬にもたらした熱い血は、だが、すぐに瞬の中で冷めてしまった。 氷河の目の前で、瞬の頬は冷たく青ざめることになったのである。 よりにもよって最も知られてはならぬ人に、瞬は、自身の心の葛藤を自ら知らせてしまったのだから、それも当然のこと。 だが、もしかしたら――氷河の前で瞬の心と身体が冷たく凍りついてしまったのは、瞬の切ない悲鳴を聞いても、氷河が少しも嬉しそうな様子を見せてくれなかったからだったかもしれない。 氷河は、瞬に、憎しみを忘れて新しい希望を見付けろと言った。 瞬は、氷河が言った通りに、自分の中に新しい希望を見い出しかけている。 それは、瞬に新しい希望を持てと言った者への好意という希望だった。 氷河の言う通りにしたのに――なってしまったのに――氷河が少しもその事態を喜ぶ様子を見せてくれなかったのは、どうやら、瞬が見付けた新しい希望は瞬の憎しみを殺ぐだけの力を持っていないと、彼が考えたからのようだった。 それも道理なことだったろう。 瞬は、自分が見付けた新しい希望を、『好きになってはだめだ』と打ち消そうとしていたのだから。 氷河の前で身体を強張らせている瞬に、彼は、ひどく悲しげな眼差しを向けてきた。 「おまえは――こんなに若くて美しくて、その気になればどんな幸福を手に入れることもできるのに、おまえの胸の中にあるものは憎悪と復讐心だけなのか」 「僕は……」 「生きてくれ。俺のために」 「あ……」 氷河は、瞬が見付けた新しい希望を喜んでいないわけではない――のかもしれなかった。 ただ、その希望が微力だと思い込んでしまっているだけで。 そうではないのだと、自分はこの新しい希望の持つ力の強大さに恐れおののいているだけなのだと、瞬は氷河に知らせたかった。 そうすれば、氷河は、復讐だけを望んでいた子供が見付けた新しい希望を受け入れ、その思いに応えてくれるかもしれない――とも思った。 だが、瞬はそうすることができなかったのである。 あの暴君の息子に生まれた者の義務感が、瞬にそうすることを許してくれなかったのだ。 あるいは――あるいは、瞬は、自分の希望を自ら否定することで、氷河に これまでより強くミケーネ王への復讐の無意味を説いてほしかったのかもしれなかった。 「そんなこと、できない……。兄さんの無念を、ミケーネの民の苦しみを、僕は忘れることはできない……」 それらのものを忘れて、自分だけが幸福になることは、そもそも可能なことなのか――。 改めて考えるまでもなく、答えは『否』だった。 自分にしかできない務めを果たさずに、自分ひとりだけの幸福を求めようとする行為には罪悪感がつきまとうに決まっている。 心の底に罪悪感を潜ませている人間が、晴れ晴れとした幸福を得られるわけがないのだ。 「おまえに罪を犯させるわけにはいかない。その必要もないし、だいいち、おまえは あの男と戦うための武器も持っていない」 「僕にはそうする義務があるし、そのための武器も持っている。僕の命が、あの男と戦うための武器だ」 「憎しみで、おまえの心は盲目になっている」 瞬の訴えを聞いた氷河が悲しげに、微かに首を横に振る。 瞬は、氷河のその眼差しが悲しくて、そして、憎かった。 悲しい出来事に出合った時、その悲しみを素直に単純に悲しめるような人間には、あの男の息子に生まれてしまった者の苦痛などわかるはずがないのだ。 「氷河は――氷河は、あの男の子供じゃないから、僕の憎しみも悲しみもわからないんだ。この身体にあの男の血が流れていることがおぞましくて、汚らわしくて、僕はいつだって自分の身体を切り刻んでしまいたいと思っていた。僕の命は、あの男の息の根を止める唯一の武器なんだ。僕は僕の命を消すことで、すべての願いを叶えられる……!」 あの男の死によって、兄と母のための瞬の復讐は成る。 ミケーネの民は圧政から救われ、あの男の血を受けた汚らわしいこの身体を地上から消し去ることもできる。 それこそが、瞬の唯一の希望で、唯一の喜びだった。 兄を失ってから、氷河に出会うまでの間の――。 氷河は、だが、瞬の必死の訴えを否定した。 「おまえが死んでも、奴は死なない」 「な……なぜ」 「おまえとおまえの兄は、あの男の血を引く子ではないから」 「え……」 瞬の かつての唯一の希望を、氷河は否定した。 そうしてから氷河は、瞬に、驚くべき事実を語り始めたのである。 それは“驚くべき事実”だった。 瞬の希望と絶望のすべてを覆してしまうような――。 |