「俺の母とおまえの母は知り合いだったんだ。あの男はデルポイの神託を受けると、自分の血を引く息子を手に入れるために、王宮に何人もの女をさらってきた。俺の母は、その中の一人だった。短い間だったが、あのミケーネの城の奥深くで、おまえの母と同じ嘆きを嘆き合った仲だ。そこで、おまえの母に打ち明けられたんだそうだ。おまえの兄は奴の子ではないと」
「兄さんが……あの男の子じゃない……?」

氷河の言葉に、瞬は驚かないわけにはいかなかった。
そんなことがあるのだろうか。
瞬の兄は、その心のありようはともかく姿形は、あの男に似通っているところがいくつもあった。
髪の色、眉の様子、声すらも――二人は“似た父子”だったのだ。
氷河の言葉は、瞬には にわかには信じ難いものだったのである。
だが、氷河は、驚きに目をみはっている瞬に軽く頷いて、彼の言葉を継いでいった。

「おまえの母はティリンスの領主の妻だった。その領主とあの男は従兄弟同士で、あまり仲が良いとはいえなかったらしい。まあ、あの男と仲良くできる人間も そうそういないだろうがな。……ティリンスの領主は、さほど有力な領主ではなかったが、善良で領民に慕われていて――奴は、そんな従弟に嫉妬していたんだろう。その従弟が妻を迎えたと聞いてティリンスに赴いたあの男は、夫の留守中におまえの母を無理矢理犯したんだ。それから 1年が経たないうちに、おまえの兄が生まれた。ティリンスの領主が息子を儲けたというので、自分が欲して手に入れられずにいるものを手に入れた従弟を憎み、奴は、ティリンスを侵略、従弟を殺してしまった。夫を殺された おまえの母は、その時、おまえの兄はあの男に犯された時にできた子だと偽った。あの男が本当に消し去りたかったのは、まだ幼い子供だった おまえの兄の方だったから、おまえの兄の命を救うためにはそうするしかなかったんだろう。ティリンスの領主とあの男は もともと従兄弟同士だったから、おまえの兄の姿は、あの卑劣な男に似ているところもあって――」

兄があの男の子でなかったことは喜ばしい。
兄にその事実を知らせてやれなかったことは痛恨の極みだが、それでも その事実は兄にとっても幸いなことだと思う。
だが――。
「でも、僕は……僕は、母があの男の妻にされてから生まれた子で――」
「ティリンスの領主があの男に殺された時、おまえは既に母親の胎内にいた。おまえの母は、おまえの命を守るために、おまえが生まれたことを、実際より2ヶ月遅く 王に知らせたんだ。おまえは母にだけ似た子で、あの男に似たところはなかったが、ティリンスの領主に似たところもなかったから、あの男はおまえの母の嘘を疑わず、おまえを自分の子と信じたんだ」
「あ……」

そんなことがありえるのだろうか――。
氷河の言葉を疑うわけではないが、瞬には、すぐには彼の言を信じることができなかった。
自分があの男の息子として生まれてしまったことは前世からの宿業なのだと思い、苦しみ悲しみながら生き続けてきた この十余年。
自分は母の子であると同時に、母を不幸にした男の子でもあるのだと、我が身を呪い続けてきた 長い年月。
この命が呪われたものではなかったという事実は――それが事実なら――もちろん、瞬にとっては これ以上はないほどに喜ばしいことだった。
兄が生きているうちに その事実を知ることができていたら、瞬は手放しでこの幸福を喜んでいただろう。
だが、今の瞬は、素直に その幸福を喜ぶことができなかったのである。

「他のことではいざ知らず、この件に関してだけは、男は女の言うことを信じるしかないからな。か弱い女には か弱い女なりの戦い方があるというわけだ」
困惑する瞬に、氷河が薄い笑みを投げかけてくる。
自分があの男の実子でないことは嬉しい――それが、たとえ、あの男に対抗できる唯一の武器を失うことであったとしても嬉しい。
それは紛う方ない本心だった。
だが、そうであるならば、この現状はいったいどういうことなのだ。

「では、あの男に実の息子はいないの? なら、なぜ……なのになぜ、あの男は生きているの !? 」
「息子はいる」
「どこに」
「おまえの目の前」
「え……」

氷河が誰のことを言ったのか、一瞬、瞬にはわからなかったのである。
今 瞬の目の前にいるのは、人々に希望を与える者といわれている聖域の聖闘士。
美しく華やかで、あの男とは似ても似つかない姿を持ち、あの男とは完全に印象の異なる表情と眼差しを持った人だけだったのだ。
しかも、その人は、瞬が生まれて初めて――母と兄を除けば唯一 ――特別に・・・好きになった人だった。
「氷河が……? まさか――」
瞬の“好きな人”は、瞬に尋ね返されても、やはり その瞳と表情に薄い笑みを浮かべたままだった。
我が身に課せられた運命を嘲笑っているような、皮肉に思っているような、悲しげで力無い笑みを。

「ミケーネの王宮にさらわれてきた女たちは、身籠る兆候がなければ、2、3年で城から放逐されることになっていた。息子を産まない女に用はないからな。だが、子を産んでしまったら、城を出ることはできなくなる。だから、俺が生まれた時、母は周囲の女たちと協力し合って、俺が生まれたことを王に隠し通す決意をしたんだ。おまえの母が夫を殺され、おまえの兄と共にミケーネの城に来た時、俺は既に この世に生を受けていて――もう自分の足で走り回り、言葉も話せるようになっていた。そんな腕白盛りの俺を王の目から隠し通すのは大変だったろうが、あの城にいる女たちは皆、同じ男に人生を狂わされた被害者同士だったから、彼女たちは俺の母の自由になりたいという望みを叶えるために尽力してくれた。それで、おまえが生まれて まもなく、俺の母は王の子を成せなかった女として、ミケーネの城を出ることができたんだ」
「氷河を連れて?」
「そうだ」

どこかで見たことがあるような、以前出会ったことがあるような青い瞳――。
もしかしたら二人は、幼い頃にミケーネの城で、会っていたのかもしれない。
命を得たことを隠しておかなければならない子供同士、同じ部屋に置かれていた時期もあったのかもしれない。
氷河がこの青い瞳で、生まれたばかりの赤ん坊の瞬の瞳を覗き込んだことがあったのかもしれない――。
以前どこかで、氷河の瞳に出合ったことがあるような気がしていたのは、おそらく その記憶が瞬の中に残っていたから。
それほどに幼い頃、腕白盛りの幼い子供は、生まれたばかりの赤ん坊に、その青い瞳で魅了の魔法をかけたのだ。

「俺の母にとって、俺は憎い男のただ一人の息子。俺を殺せば、彼女が幸福を奪われたことの復讐は成ったのに、母は俺を慈しんで育ててくれた。あの男の血を引く俺が一緒だったから、以前いた村に帰るわけにもいかず、母は一人で苦労して俺を育てて、苦労して死んで――」
「氷河……」
瞬は、あの男が支配する国で、心に『あの男の息子』という苦しみを負わせられはしても、それでも何不自由のない暮らしをしてきた。
だが、ミケーネ王の役に立た・・・・なかった・・・・氷河の母と、ミケーネ王の実子である氷河は、心に負わされた苦しみだけでなく、その命を永らえるための現実的な苦労までをも負って、つらい日々を懸命に生きてきた――のだろう。

瞬は、自分に課せられた運命こそが、この地上で最も残酷なものであり、自分こそが この地上で最も不幸な人間だとうぬぼれて・・・・・いたのに、事実はそうではなかったのだ。
氷河こそが、最も残酷な運命に耐え、最も過酷な苦しみに耐えてきた人だった――。

「俺は奴を憎んでいる。多分、おまえより。そして、俺こそが奴を殺す武器を持つ唯一の人間だ」
「あ……」
「おまえが言っていた通り――この身体にあの男の血が流れていることがおぞましくて、汚らわしくて、自分の身体を切り刻んでしまいたいと幾度も思った」
「ぼ……僕……」
誰よりも過酷な運命に耐え、うぬぼれの強い愚か者に『新しい希望を見付けろ』と言ってくれた人に、自分はなんという残酷なことを言ってしまったのか――。
たった今 自分が口にした運命への呪詛の言葉を、瞬は心から後悔した。
あの時 瞬は、実は、自分自身ではなく氷河の身の上を呪ってしまっていたのだ。

「おまえが死んでも、奴は死なない。おまえにその力はない」
氷河にそう言われて、瞬は気付いたのである。
今の氷河の瞳には、絶望の色しかない。
彼の青い瞳は、暗く深い絶望の色をしか たたえていない。
以前は、そこには、もっと違うものがあった。
『不幸なうぬぼれ屋に新しい希望を持たせたい』という希望や、瞬への同情、慈しみ、優しさ――。
それらのものが、今はすっかり姿を消してしまっている。

自分の軽はずみな言葉が氷河を追い詰めたのだ――。
そう悟った瞬間に、瞬は本当に・・・死んでしまいたくなったのである。
今こそ本当に、瞬は我が身の消滅を願った。
氷河を苦しめる権利など持っていなかったくせに、ここまで彼を追い詰めた人間など一刻も早く死んでしまえばいいと、瞬は心底から思ったのである。
それと同時に、瞬は、氷河に新しい希望を見付けてほしいと思った――。

「ご……ごめんなさい……! 希望が必要なのは、僕より氷河の方だったのに、なのに僕、なんてひどいことを――」
「希望はある。俺の希望は、母の復讐の成就だけだ」
「氷河……」
昨日までの自分と同じことを、氷河が言う。
いったいそれは、自分ひとりが不幸だと思っていた傲慢な人間への皮肉なのか本心なのか――。
皮肉なら それでいいと、瞬は思ったのである。
彼に皮肉られて当然のことを自分は言ったし、彼に責められて当然のことを、自分はした。
だが、もし、それが氷河の本心から出た言葉であったなら──。
その可能性に思い至り、瞬は戦慄したのである。

氷河の気持ちはわかる。
氷河の苦しみがどのようなものなのか、瞬には、痛いほど――わかりすぎるほどにわかった。
なのに、瞬は今、氷河には希望を持って生きていてほしいと願わずにはいられなかった。
おそらく、昨日までの氷河も、こんな気持ちで傲慢な子供を見詰め、繰り返し言ってくれていたのだ。
『新しい希望を見付けてくれ』と。
その思いを、彼の苦しみと強さを、瞬は少しも理解していなかった――。






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