「こ……こんなことを言ったら、氷河は笑う。きっと僕を軽蔑するでしょう。でも、言わずにはいられないの。氷河は――氷河は新しい希望を見付けることはできない?」
氷河に冷たく笑い飛ばされることを覚悟して、瞬は、昨日までの氷河が瞬に繰り返し言ってくれていた言葉を口にした。
氷河は、瞬の案に相違して、瞬に冷笑を返してはこなかった。
瞬がそうしていたように、頑なな態度を示すこともしなかった。
そうする代わりに、彼は、
「もう一つの希望は……俺の目の前にある」
と言った――言ってくれた。

「え?」
「おまえだ」
「あ……」
氷河のその言葉が心からのものであるのなら、瞬は彼の希望にでも奴隷にでもなりたかった。
氷河の何かになれるのなら、それが何でもいい。
どんな立場のものでも構わなかった。
氷河を、復讐という名の絶望から解き放つことができるのなら。
本当に、心から、そう思った。

「俺の母は――気の毒な王妃と二人の子供のことを、いつも俺に話していた。何かあったら、あの二人を助けてやれと。あの二人と俺は兄弟のようなものなのだからと、いつも言っていた」
『あなたには、その力が与えられているの』
『その力、無駄に使ってはだめよ。安易に消してしまってもだめ。あなたには為すべきことがあるの』
氷河の母は、氷河にいつもそう説いていたのだという。
彼女は、復讐を願ったことなど、一度もなかった。
瞬の母親がそうだったように、氷河の母親もまた。

「氷河のお母さんは、氷河に、『希望を見付けて』って、いつも言ってたんだね。氷河が生きていることには意味があるんだ――って。氷河のお母さんは心から、とても深く、氷河の幸福を願っていたんだ……」
彼女は、氷河を憎み呪うこともできた。
だが、彼女はそうしなかった。
それは、彼女が氷河の母親だったから――ではないだろう。
母という存在のすべて、父という存在のすべて、親という存在のすべてが、皆 同じように我が子の幸福を願うとは限らないことを、瞬は知っていた。
氷河の母は、それほどに強く、優しく、美しい女性だったのだ。
そういう人に、氷河は愛され、育てられてきた――。

「俺は――俺は愚かな息子で――」
「え?」
「そうだったのだと気付くのに、俺は10年かかった。俺はずっと、なぜ彼女はあの男を憎まないのかと腹立たしく思っていたんだ。彼女は俺のために、あの男への憎しみを捨ててくれたのに、そんなことにも気付かずに――。彼女の願いは、俺が生きて幸福になることだったんだと 俺が気付いたのは、彼女が死んでからだった……」
「氷河……」
では、氷河は――氷河も――自分と同じ過ちの時を過ごしてきたのだと、瞬は切なく思った。
自分を愛してくれる人の愛情の重さに気付かず、憎しみにばかり囚われていることほど悲しいことはない――愚かなことはないというのに。

「おまえには彼女の心がすぐにわかるんだな……。おまえは、俺の母と同じ心を持っているのかもしれない。強くて、悲しくて、優しくて美しい――」
それまで瞬との間に 意識して距離を置いているようだった氷河が、初めて瞬に触れてくる。
氷河の母の思いが二人の間の距離を消し去ってくたれかのように――氷河は、瞬をその胸に抱きしめた。
瞬を包み込む氷河の胸は温かく、瞬を抱きしめる氷河の腕は優しく力強く、瞬は永遠にこのままでいたいとすら思ったのである。

「おまえに復讐など似合わない。忘れろ。忘れて、俺を――」
突然、氷河の声と身体が強張る。
その先を、氷河は言わなかった。
何かひどく強い衝撃を受けでもしたかのように、氷河が瞬を抱きしめていた腕を解き、瞬の身体を彼から引き離してしまう。

「氷河……?」
その言葉の続きを言ってほしいと 瞬は思ったのに――激しいほど強く、瞬は そう願ったのに、氷河は瞬のその願いを叶えることはせず、瞬をもう一度抱きしめることもしてくれなかった。
視線を脇に逸らし、何かを取り繕うように、別の話を始める。

「母が亡くなってから、自分に何ができるのかわからないまま、俺は聖域に来た。ミケーネの城に行くことはためらわれたんだ。あの男の側に行ったら、俺は母の意思に背いてしまいそうだったから。ここで聖闘士になり、自分は何をすべきなのかを迷っていた時だ。おまえの兄がミケーネの軍に追われて、瀕死の状態で この聖域にやってきたのは」
「瀕死――」
言ってほしいことを言ってくれない氷河を もどかしく思い、焦れてさえいた瞬の胸に、鋭い痛みが走る。
今は恋に気をとられている場合ではないのだということ、たとえ実の親子でなくても ミケーネ王が自分の兄の仇であることに変わりはない事実を、氷河の言は瞬に思いださせることになった。

そして、瞬は、氷河なら知っているのかもしれないと思ったのである。
兄の死の真実を。
あの男は、瞬の兄が父を殺そうとしたから我が身を守ろうとしただけ――というようなことを言っていた。
だが、そんなことはありえることではないのだ。
兄がそんな企てを企てるはずがない。
だから、瞬はずっとミケーネ王の行動が腑に落ちずにいたのである。

「でも……父――あの男は、自分の命を保障してくれる者は多い方がよかったはず。兄さんを実子と思い込んでいたのなら、どうして あの男は兄さんを殺したりしたの」
それはミケーネ王の命をも危うくすることである。
命綱は1本よりも2本の方が心強いものではないか。

氷河の返事は思いがけないものだった。
彼は、ミケーネ王と同じことを言ったのだ。
「おまえの兄が、奴を殺そうとしたからだ」
と。
だが、それはありえないことなのだ。
「そんなはずないよ! 兄さんは僕に、復讐を忘れようって――誰も憎むなって、言ってた――言ってくれてた。兄さんも、僕の幸福のことだけ考えるようにするからって」
「事情が変わったんだ」
「事情が変わった?」

いったいそれはどういうことなのか。
でき得る限り父のすべてから目や耳を遠ざけていた瞬は、その“変わってしまった事情”というのに、全く心当たりがなかった。
ミケーネ王は、瞬の兄の死の前後を通して卑劣な暴君であり続けたし、国情に特に大きな変化があったとも、瞬は聞いていなかった。
微かに眉根を寄せた瞬に、氷河は 暫時ためらいのようなものを垣間見せた。
“事情”がどんなふうに変わってしまったのかを 瞬に知らせることを迷う素振りを見せてから、氷河がやがて重い口を開く。

「あの男は最低な下種だ。自分の欲望を満たすためなら手当たり次第、清純な乙女、夫を愛している人妻、どんな女でも男でも――我が子でも見境がない」
「え……?」
「おまえは美しく育ちすぎたんだ。奴は、実の息子ということになっているおまえに――」
氷河が口ごもるのも当然のことである。
氷河が口にした“事情”の意味を知って、瞬はぞっとした。
あの男の血が自分の体内を流れていること以上に――そんなことになったら、瞬は 到底生きてなどいられなかった。
我が身を切り刻むだけでは飽き足らず、太陽神ヘリオスの引く炎の戦車に焼き尽くされてしまいたいと望むことになっていただろう。

「父を嫌い恐れて 滅多に王の側に近寄らないおまえを我がものにするために、あの男は画策を始めていた。おまえに領地を与え、その領主とするための教育を自ら施すなどという白々しい大義名分を作り上げて、おまえを王の側に連れてこいと、おまえの兄に命じたんだ」
「そんなこと、兄さんは一言も――」
一言も――言えるはずがない。
あの兄が、弟を怯え苦しめ、父への憎しみを増大させるようなことを、瞬に言うはずがなかった。
「おまえの兄の中に、もともと あの暴君は国のために死んだ方がいいという考えはあったろうが、おまえの兄にその決意をさせた直接の原因はそれだ。おまえをそういう対象として見るようになった あの男への憎悪と軽蔑――」

そして、瞬の兄は、言葉で父を諌める代わりに行動を起こした――のだ。
弟には何も言わずに。
「おまえの兄は、おまえの身を守るためには奴を殺すしかないと思ったんだ。だが、失敗し、逆に奴の軍兵に追われることになり、この聖域に逃げ込んできた。そして、この計画を立てたんだ」
「計画?」
「自分が死ぬ計画だ。そうすれば、奴の息子はおまえ一人だけということになる。そのおまえを無理矢理犯したら、おまえは自害もしかねない。それくらいのことは、あの男にも想像できないことではないだろうから――自分がいなくなれば、あの男はおまえに無体なことができなくなると、おまえの兄は考えたんだ。敵であった者に、おまえを守らせようとした」

皮肉な計画――。
瞬は、母の仇であり兄の仇ともなった父の死を願っているというのに、ミケーネ王は、彼の死を願う者の命を、それこそ唯一の希望として命がけで守らなければならない。
それは、皮肉この上ない計画だった。
そして、非常に有効で的確な計画でもある。
だが、そのために――。
「そのために――僕のために、兄さんは死んだというの……」

兄の命を守るためになら、瞬はあの憎い男の前に命も身体も投げ出していただろう。
兄の命を失うくらいなら、あの男にどんな おぞましいことをされても耐えられる――耐えることができていたはずだった。
それが わからぬ兄ではなかったはずなのに――おそらくは わかっていたからこそ――兄はその計画を立て、実行に移したのだ。
ミケーネ王よりも、他の誰よりも、瞬にとって皮肉で残酷な その計画を。

瞬の瞳から、涙があふれてくる。
その涙を見詰める氷河の瞳は、苦渋の色をたたえてはいたが、悲嘆に暮れてはいなかった。
涙で潤んだ瞬の目では、彼の奇妙な苦渋を見てとることはできなかったのだけれども。
氷河は、ややあってから その肩から力を抜き、その口許にどこか作りものめいた笑みを刻んだ。
「正確には、“死んだ振りをした”だ。俺が聖域に偽の墓を作って、ミケーネ王の命令でおまえの兄を追ってきた兵たちに見せてやったんだ。――そういう計画だ」
「ふ……振り……?」
氷河に尋ね返した――というより、瞬は、氷河が口にした言葉を復唱しただけだったかもしれない。
それほど、氷河の言葉は瞬を驚かせた。
氷河が、瞬に首肯する。

「なら……なら、兄さんは……い……生きてるの !? 」
「ああ、今はコリントスにいる」
「ああ、神様!」
今ほど氷河に抱きしめられたいと――否、氷河に抱きついていきたいと思ったことはない。
兄が生きていた――兄が生きていたのだ。
瞬の唯一の希望であり、瞬の幸福のすべてでもあった人が、生きて、この地上に存在してくれている。その喜びを、瞬は氷河にぶつけてしまいたかった。
氷河が その身にまとう空気で瞬を拒んでさえいなかったなら、瞬はそうしていただろう。
氷河が、瞬の喜びを瞬ほどには喜んでいるようには見えなかったので、瞬はそうすることができなかったのだが。
だが、それでも嬉しい。
こんな喜びは他にはないと、瞬は歓喜していた。






【next】