「生きていく気になったか」 氷河が硬い口調で尋ねてくる。 そのせいで、彼に頷き返す瞬の所作も少々硬いものになった。 だが、嬉しい。 嬉しくて、どうすればいいのかわからないほど、瞬は嬉しかった。 「どうして、もっと早く教えてくれなかったの!」 氷河の険しい表情の訳がわからなかった瞬が氷河を責める口調は、だから、軽々しく少し拗ねたものになったのである。 「おまえの絶望も憎しみも――おまえの気持ちはわかりすぎるほどわかっていた。だが、俺のために――」 氷河が、そんな瞬に寂しげな微笑を見せる。 「おまえが、兄ではなく俺のために生きる決意をしてくれたら嬉しいだろうと思ったから」 「氷河……」 もしかしたら、拗ねているのは氷河の方――なのだろうか? そんなふうに拗ねてしまうほどには、彼は自分に好意を持っていてくれるのだろうか――? あまりに嬉しいことばかりが続いて――すべての憎しみ、これまでの苦しみや迷い、それらの何もかもが もうどうでもいいことに思えてしまい、瞬は氷河の前で笑い出してしまいそうになったのである。 「だが、もう……」 だというのに、氷河の沈んだ声が、瞬に笑うことを許してくれなかった。 「氷河……?」 「俺は、あの男の息子だ。憎いだろう?」 「氷河、なに言って……」 「俺は奴のただ一人の息子だ。そして、奴を心から憎んでいる。おまえは俺に復讐してほしいか」 「氷河……」 「あるいは、俺を殺せば、奴も死ぬ。その方が手っ取り早いな」 何を、氷河は言っているのだろう。 まるで自虐するように。 それは、最も氷河らしくない態度だった。 少なくとも、瞬の知っている氷河は、冗談にでもそんなことを言うような男ではなかったのだ。 「俺はいいんだ。俺は、おまえよりずっと、奴への復讐を願っている。奴を殺したい。そのためになら、自分の命もいらない」 「氷河……何を言ってるの……」 『新しい希望を見付けて生きろ』と瞬に繰り返し言っていたのは、他の誰でもない氷河自身である。 だというのに、彼はなぜ急にそんなことを言い出したのか――。 瞬には、氷河の考えがまるでわからなかった。 「氷河。どうして、そんなことを言うの」 「俺は、あの男と同じだ。俺は――」 「何が同じなの! 氷河は何もかもあの男とは違うよ! 姿も心も――きっと、氷河は氷河のお母さんにだけ似ているんだ。僕が氷河の死を願うことがあるなんて、氷河は本気で思ってるの。そんなの、いやだよ! 僕は氷河に生きていてほしい。氷河が生きていてくれるのなら、あの男がどうなったって、僕はもうどうでもいい!」 瞬は懸命に氷河に訴えたのだが、それでも氷河の上から苦渋の気配は立ち去ってくれなかった。 それがなぜなのか、瞬にはわからなかったのである。 瞬は、兄のために憎しみを忘れようとしていた。 その兄が死んだ――殺されたと思ったから、再び 父への憎しみに身を任せようとしたのだ。 兄が生きていたのだから、瞬はもう一度憎しみを忘れることもできるはず――少なくとも、忘れようと努力できるようになるはずだった。 氷河の死を願う理由など どこにもないではないか。 にもかかわらず、瞬の声は苦しげで、低く呻いているようにさえ響くのだ。 「俺は、あの男に苦しめられ続けてきたおまえに幸せになってほしいと、それだけを願っているつもりだったのに」 「そうだよ。氷河は僕のために希望を――」 気負い込んだ瞬の声を、氷河が遮る。 彼は苦しげに首を横に振り、そして、瞬の視線を避けるように、その顔を俯かせてしまった。 「さっき――俺はおまえに欲情した。おまえが欲しい。俺はあの男と同じだ。あさましくて、卑劣で――」 「あ……」 『おまえに復讐など似合わない。忘れろ。忘れて、俺を――』 氷河が、その先の言葉を言ってくれなかった訳。 その理由を知らされて、瞬は、我知らず後ずさった。 氷河には、あの男に似たところは一つもない。 美しくて華やかな姿をしていて、瞬に向けられる彼の眼差しは優しい。 この氷河が そんな欲望に囚われている様など、本音を言えば、瞬には全く想像できなかったのである。 「清らかなものは汚したくなるものだと、あの男に言われた時には、そんなことを言うあの男を軽蔑したのに、結局俺は――」 『あの男と同じだ』 氷河は、その言葉を繰り返そうとしている。 だが、瞬は、もう二度と、氷河の声と唇が作りだす そんな言葉を聞きたくはなかった。 氷河があの男と同じだなどと、そんなことがあるはずがないのだ。 「氷河は、あの男とは違うよ! 僕は、氷河は恐くないもの!」 「瞬、軽々しく俺に希望を与えないでくれ。俺は……」 「僕に希望を持てって言ってくれたのは氷河でしょう。僕も、氷河には希望を持っていてほしい。僕が氷河に希望をあげられるのなら、僕はそうする。そうすることができたら、僕の中にも希望が生まれるような気がするんだもの。僕は――」 それが情欲を満たすことによって得られるものだとは、瞬は考えたこともなかったが――たった今も、そう考えることは難しいことだったが――氷河がそれを望むのなら、それでもいいと瞬は思った。 氷河は、あの男とは違うのだ。 少なくとも、あの男は、氷河のように自身の情欲に自己嫌悪を抱いたりする人間ではない。 「氷河のために生きようって思えるようになれたら、僕は幸せになれるような気がするの」 「瞬、頼むから、俺を苦しめないでくれ」 「氷河は氷河のお母さんの子だもの。氷河が綺麗なこと、僕が確かめてあげる」 「瞬、頼むから――。おまえは自分が何を言っているのか わかっていない。俺がおまえに何をしたいと思っているのか、何もわかっていないんだ。俺はあの男と同じ――」 「わかってるよ!」 氷河が自分に何をしたいと思っているのかは、確かによくわからなかったが――漠然としたイメージを思い描くことしかできなかったが――、それでも瞬は、氷河の気持ちだけは わかりすぎるほどにわかっていた。 それは、あの男の血が自分の中に流れているという恐怖。 自分が憎んでいるはずの男と同じ残酷や醜さが 自分の中にもあるかもしれないという恐怖なのだ。 だが、氷河は、あんな“父”より、強く美しかった彼の母から貰ったものの方が大きいはず――多いはずだった。 氷河の中にある“母”までを否定したら、それは、強く美しかった女性の生までを否定し侮辱することになるではないか。 そんなことだけはあってはならない。 氷河にそんなことをさせてはならない。 その強い思いに突き動かされて、瞬は氷河の背に腕をまわし、彼を抱きしめた。 「やめろ」 かすれた声で、氷河が瞬を遠ざけようとする。――言葉だけで。 氷河の腕が自分を振り払わないことに力を得て、瞬は食い下がった。 「氷河、僕に意地悪してるの。そりゃあ、僕は氷河の言うこと聞かない我儘な頑固者だったけど、それは何度でも謝ります。だから――許してくれたっていいでしょう。僕……僕は……」 氷河のせいで新しい希望を見付けてしまったのに、今更それを否定されてしまったら、どうしたらいいのかわからなくなる。 瞬はもう、絶望の中には戻れそうになかった。 それとも氷河は、そうしろというのだろうか。 せっかく見付けた新しい希望を捨てて、もう一度 絶望だけを見詰めて生きていけと。 氷河がそんなことを願っているはずがないことはわかっていたのに、瞬の瞳からは涙が一粒こぼれ落ちた。 氷河のせいで流された涙――に、他の誰でもない氷河が、ひどく慌てる。 「しゅ……瞬、そういうことじゃないんだ。俺は おまえを責めているわけでは――」 「じゃあ、何なの。氷河は僕が嫌いなの」 「そんなことがあるはずないだろう!」 「なら、なぜ氷河は僕をいじめるの」 「う……」 いじめられているのは自分の方だと、正直なところ、氷河は思ったのである。 こんな いじめには、たとえアテナの聖闘士でも一秒たりとも耐えることは不可能だと。 大きく息を吸い、そして吐き出す。 どうやら白鳥座の聖闘士の心は、瞬の心より はるかに弱く 軟弱にできているようだと、自虐的に思う。 その事実は潔く認めた上で、だが、氷河は希望がほしかったのだ。 人が生きていくのに何よりも必要なそれを、氷河はどうしても己が手で掴みたかった。 「おまえのために生きたい。俺にはそう思える人が必要で、ずっと探していた。巡り会えたと思う」 「うん……。僕もだよ」 やっと素直になってくれた――させられた?――恋人の腕の中で、瞬が――瞬もまた――素直に頷いてくれる。 これまでと違って、瞬を抱く自分の腕に込められた力が強く熱くなっていくのが、氷河にはわかった。 それが感じ取れたのか、瞬が少し 「あの……氷河が優しくしてくれることは信じてるけど、僕、あの……」 「もちろん優しくしてやる」 「うん……僕は氷河を信じてる。でも、あの……」 「そんなに心細そうな顔をするな。自分が抑えられなくなって、優しくしていられなくなる」 「あ……」 氷河の言葉を言葉通りに受け取った瞬が怯えた目になる。 頑固で素直なこの恋人は、 これでは他にどうしようもない――と、氷河は思ったのである。 それを、瞬は『受け入れる』と言ってくれているのだ。 『氷河なら恐くない』と瞬が言ってくれた激情は、既にほとんど氷河の心身を支配してしまっていた。 その激情が瞬を傷付けないことを心中で祈りながら、氷河は瞬の身体を抱き上げた。 |