「キェルケゴール……って、実存哲学の?」 瞬は紫龍にそう尋ね返したが、瞬が知っているのは、キェルケゴールが実存哲学の祖と言われていることくらい。 彼の唱えた実存主義がどんなものであるのかも、瞬は知らなかった。 星矢に至っては、 「そのケロケロゲーってのは何なんだよ」 というレベルの知識(?)しか持ち合わせていない。 さすがの紫龍も、星矢のその質問には渋い顔になってしまったのである。 「キェルケゴールはカエルの鳴き声じゃなく、人名だ。200年も前のデンマークの哲学者」 「テツガクシャ〜? 何だよ、それ。お偉いテツガクシャの先生と氷河がどう関係あるんだよ」 ケロケロゲーが人名とわかっても、星矢はその人物を氷河に関連づけることができなかったようだった。 その点に関しては、紫龍も不満の色を見せない。 彼は、淡々と、星矢の疑念に答えた――答えようとした。 「いや、キェルケゴールの恋というのが、実に特殊なものでな。キェルケゴールは24歳の時、当時14歳だったレギーネ・オルセンという美少女に一目惚れするんだが――」 「それって犯罪者じゃん。ケロケロゲーじゃなくて、へたするとエロエロジー」 「……」 24歳という年齢は、『 なにしろ相手が若すぎる。 現代日本で言えば、それは、立派に成人した社会人が中学生の少女に粉をかけるようなもの。 法的に見ても、キェルケゴールの恋は淫行条例に抵触するものなのだ。 現代の日本国では。 「まあ、19世紀初頭の欧州のことだから。それに、キェルケゴールは彼女との出会いから3年間、自分の恋心を抑えるために努力し、実際に抑えぬいたんだ」 「氷河と違って、自制心のある立派な男じゃん」 星矢の人物評はころころ変わる。 が、一つの意見に固執しない星矢の柔軟さは、決して責められるようなことではないだろう。 むしろ それは賞讃に値する美徳なのかもしれなかった。 「だが、3年間後、恋心が抑え切れなくなったキェルケゴールはレギーネにアプローチを開始。情熱的に迫り続けて、やがてキェルケゴールは首尾よく彼女と婚約する。ところが、婚約から1年も経たないうちに、キェルケゴールは彼女との婚約を破棄しているんだな」 「なんだよ、それ。無責任だなー」 柔軟な星矢の評価は、良い方にも悪い方にも軽快に変化する。 紫龍は薄い苦笑を浮かべた。 「キェルケゴールの父というのが、まあ、ちょっとした罪を犯して自分は呪われていると信じている男だったんだ。その罪というのが、自分の不運を嘆いて神に恨み言を言ってしまったとか、神の前で正式に婚姻する前に子供を作ってしまったとか、そういう罪で――彼は、あまりにも信心深すぎたんだろうな。で、キェルケゴールはその父の罪業を自分が引き継いでしまったと信じてしまう。そんな罪深い男がレギーネを幸せにできるはずがないと考えて、キェルケゴールは愛する人との婚約を破棄し、彼女に冷たい態度をとるようになった」 「ほんとに勝手な男だなー。そんなの、そのカノジョには関係ないことじゃん。自分が罪人だと思い込むのは、ケロケロゲーの勝手だけど、そんなこと、婚約する前に考えとくべきことじゃないか」 星矢の意見は、至極尤も。 紫龍も星矢の意見を否定するようなことはしなかった。 その点に関しては、紫龍も星矢と大同小異の意見を持っているのだろう。 「レギーネはキェルケゴールを心から愛していた。彼女は、『あなたの側にいられるのなら、たとえ小さな戸棚に住むようなことになっても、私は一生あなたに感謝し続けるでしょう』とまで言っている。絶世の美少女にそこまで思われて、だが、それでもキェルケゴールは彼女のために冷たい態度をとり続けたんだ」 「血も涙もない男じゃん!」 そろそろ星矢のキェルケゴール評価は確定しかけているようだった。 憤然と吐き出すように そう言って、星矢は口をとがらせた。 とはいえ、星矢が不快の念をあからさまにしたのは、そんな男と氷河がどうつながるのかがわからなかったせいでもあったろう。 紫龍の話を聞いた限りでは、キェルケゴールは、血も涙もあり余っている氷河とは対極にあるといっていいような男である。 星矢には、紫龍の言わんとするところが全くわからなかったらしい。 結論を急ぐなというように右手を軽く振って、紫龍が星矢の勇み足を制する。 「血も涙もあったさ。レギーネの懇願にもかかわらずキェルケゴールは決意を変えず、レギーネは結局、親の勧めもあって別の男と結婚したが、キェルケゴールは一生独身を貫いた。一生彼女のことを思い続け、苦しみ続け、そして、彼は、実らぬ恋の情熱を自分の哲学の思索と創作活動に注ぎ込んだんだ。キェルケゴールは『レギーネのために世界でいちばんインクを使った男』と言われている。そして、死の間際、キェルケゴールは自分の全財産をレギーネに贈るという遺言を遺した。レギーネに対するキェルケゴールの心は疑いようがない」 「んなこと言ってもさ! 歳くってから財産なんか遺されたって何にもならねーじゃん。なあ、瞬、おまえもそう思――」 気負い込んで瞬に同意を求めた星矢の声が、勢いを失う。 それもそのはず。 紫龍の語るキェルケゴールの恋物語を聞いた瞬の瞳は、今にもあふれださんばかりの涙で すっかり潤んでしまっていたのだ。 200年も昔に生きていた自分勝手な男が、自分勝手に一つの恋を終わらせた――。 それでも、その恋には、200年後の世界に生きている瞬の瞳を涙で潤ませることができるだけの力があったらしい。 確かに勝手な男ではあるが、彼の心に恋する人への誠意があったことは否めない。 相手の幸福を願えばこその愚行。 悲しい愛情の発現。 が、それが星矢にはわからなかったのである。 『幸せにできないかもしれない』という根拠のない思い込みのために 女を泣かせるような男は、ただの腑抜けだったのだ。星矢の価値観では。 なにより、星矢は、 「それと氷河が瞬ばっかり誘ってることと、どう関係があるんだよ」 という点で、理解に苦しんでいた。 そんな星矢に、紫龍がやっと、長々しい前置きから導き出される結論を口にする。 「氷河は、あれでも一応アテナの聖闘士だ。いつ戦いで命を落とすかわからない。そんな自分が愛する人を幸せにできるわけがないから、好きな相手ができても一緒になることはできないと、氷河は思っているんじゃないのか? だから、氷河は、“女の子”ではなく、同じアテナの聖闘士であるおまえといることを選んでいるんだ」 「だから、女の子じゃなくて僕……」 小さく呟く瞬の瞳を潤ませている涙が、切ない色を帯びる。 それは、氷河が女の子ではなく 彼の仲間ばかりを誘う理由としては、非常に瞬好み――あまりにも瞬好みな理由だった。 だから、瞬は、紫龍の見解を――それはただの推論でしかなかったのだが―― 一も二もなく―― 一抹の疑念を抱くこともなく受け入れることができてしまったのである。 「そうかぁ?」 そんな瞬とは対照的に、星矢は全く紫龍の推論を受け入れることができなかった。 星矢は 氷河がそんなことを考える男ではないことを知ってたし、それより何より、彼は、『氷河が誰を好きなのか』を知っていたのだ。 紫龍の推論推察は、星矢には信じ難く、また受け入れ難いものでもあった。 氷河の意中の人が誰であるのかということは、紫龍も承知しているのだから、おそらく紫龍はその推察を冗談で言っているに決まっている。 そう思いはするのだが、紫龍は、冗談を言う時も、皮肉を口にする時も、本心を語る時も――いつも 同じ表情なので、その判断が難しいのだ。 その 判断の難しい真顔を瞬に向け、紫龍が確信に満ちた様子で瞬に助言する。 「まあ、そういう訳だから。氷河が女と付き合わず、おまえを誘ってばかりいることを、おまえが気に病む必要はない。氷河はそうするしかなくて、おまえばかりを誘っているんだ。おまえが迷惑に感じていないのなら、これからも奴の相手をしてやればいい」 「うん……」 極めて自分好みの説明とアドバイスを与えられた瞬は、素直に紫龍の“真顔”を信じ、頷いた。 氷河と過ごす時間は、瞬にとっては、いつも非常に楽しいものだった。 その楽しい時間を失いたくないと考えたことはあっても、迷惑に感じたことは一度も一瞬もない。 氷河がそんなふうに悲しいことを考えているというのなら、瞬は彼にできるだけ優しくしてやりたかった。 氷河の繊細で切ない心を少しでも癒してやりたいと思った。 思いはしたのだが。 そう思う一方で、瞬はまた、氷河の考え方は間違っているとも思ったのである。 |