戦いのない時のアテナの聖闘士は暇を持て余して退屈しているに違いないという考えは誤りである。
外出の予定がなくても、氷河と瞬に限っていうなら、そのようなことは決してなかった。

というわけで。
翌日、氷河が瞬のために用意したイベントは“花見”だった。
季節は梅雨に入る前の初夏。
城戸邸の庭では、夏薔薇が今を盛りと色とりどりに咲いていた。
氷河はその様が一望できるように、ラウンジの庭に面したガラスドアをすべて外し、瞬のためにケーキとお茶を用意して、初夏の花見と決め込んだのである。

瞬だけのためにセッティングした花見の席に、氷河が星矢と紫龍の同席を許したのは、城戸邸内での花見に城戸邸で起居する仲間たちが参加しないことを瞬に不自然に思わせないように配慮してのことだったろう。
配慮の行き届いた氷河は、星矢たちに、
「これは瞬のために用意した花見の席なんだから、貴様等は瞬の視界を遮ることのないよう、部屋の隅で大人しくしていろ」
と釘を刺すことも忘れなかった。

どこぞの“女の子”相手のことであれば、氷河は絶対にここまで神経の行き届いた(?)配慮を(?)することはあるまいと、星矢などは思ったのである。
なにしろ、氷河は、そこまで配慮していることを瞬に気付かれぬよう配慮することまで怠りなくしてのけるのだ。
それは、瞬のように特殊な・・・繊細さを備えている人間相手に為されることだからこそ意味を持つ種類の気配りだった。

氷河は、ずぼらで面倒くさがりで無神経な男。
放っておくと、肌が氷に貼りついて凍傷を起こす危険も顧みず、平気でシベリアの氷原にトドのように寝転がっている男。
それが、氷河に関する大方の見方だが、氷河がずぼらで無神経なのは、彼がそういった行動を起こす際の対象が、彼にとってどうでもいいモノだからなのだという確信を、この花見の席で、龍座の聖闘士は改めて強めることになったのである。

自分自身や、命をかけた戦いを共に戦ってきた ただの・・・仲間等に気を配る必要はないと、氷河は思っている。
もしくは、“思う”どころか、その発想がない。
だが、氷河は、彼が価値あるものと認めたものに対しては、ちゃんと配慮ができる男なのだ。
その配慮が正しく適切なものであるかどうかは さておいて。
事実、彼は、かつては、彼の最愛の母親を毎日花で飾るという行為を 面倒くさがりもせずに してのけていた。

そんな氷河が、今日という日を花見の日に選んだのは、これまた深い配慮の結果だっただろう。
その日は朝から爽やかな快晴、気温は高くもなく低くもなく、吹く風は微風。
意識すれば気付く程度に、さりげない薔薇の香りがラウンジ内にまで忍び込んできている。
瞬の目を楽しませるための薔薇の花は 固い蕾ではなく、また、見苦しく開きすぎてもいない。
今日という日は、まさに絶好の花見日和だった。

それらの氷河の配慮を、すべて“自然”の為せるわざと信じている瞬は、おそらくこの初夏で最も美しく快適な日の花の姿に、眩しげに目を細めたのである。
だが、瞬の視線がそれらの花の上にとどまっていたのは、僅か数分の間だけ。
瞬の視線は、花見が始まって まもなく、素晴らしく自然な この花見をセッティングした男の方に巡らされることになった。
今を盛りと咲き誇る花よりももっと、今の瞬には気掛かりなことがあったのである。

「氷河。氷河には好きな人がいるの?」
それが、氷河が入念に企画・準備した花見の場で発するにふさわしい話題であったかどうか――。
瞬の問いかけは氷河の心を案じて発せられたものであったろうが、瞬はおそらく 氷河ほどには氷河のための配慮ができていなかった。
そんな配慮もできないほど、瞬は氷河の恋が心配でならなかったのだ。

「ああ」
快も不快も、驚きも戸惑いも、特には込められていない声音で、氷河が自然に・・・瞬に頷き返してくる。
「どんな人? 綺麗な人? 優しい人?」
「綺麗で可愛くて強くて――間違いなく、この地上で最も清らかな人間だな」
「そう……」
あっさりと そう断言できてしまえるほど熱烈に思っている人との恋を、その人の幸福のために、氷河は諦めようとしているのだ。
世界はこれほど美しく暖かく輝き、庭の薔薇はこれほど美しく可憐な姿を呈しているというのに――。

今日という一日の美しさが、かえって瞬の心を悲しくさせる。
瞬の瞳から涙が一粒 零れ落ち、それは初夏の明るい光を受けてきらめくと、やがて瞬の膝に置かれていた白い手の甲の上で飛び散っていった。
「瞬?」
瞬の姿を映しとっていた氷河の瞳が、怪訝の色を帯びる。
瞬は慌てて、その首を横に振った。
「あ、お日様が眩しくて……。何もかもが綺麗すぎて、ちょっと目が痛くなっちゃったみたい」
こんなにも世界は美しく、幸福の可能性に満ち満ちているというのに、氷河はその恋を諦めようとしている。
それは、やはり間違いだと、瞬は思った。思わないわけにはいかなかった。

氷河が 氷河の恋する人を幸福にできないというのは、いってみれば ただの思い込みである。
だが、普通、人は、『幸福にできるかもしれない』 『幸福になれるかもしれない』と期待し願って、恋をするものだろう。
確実な幸福が約束された恋も人生も、この世には存在しない。
たとえ その恋が悲しい結末を迎えることになったとしても、その結末の一瞬だけを見て、この恋は不幸なものだったと決めつけることは大きな誤りである。
今 氷河がその“女の子”をそれほど好きだというのなら、彼が求めるべきものはまず、“今の幸福”。
そして、その幸福を二人して守っていこうと願う意思と決意であるべきではないか――。

瞬の目には、既に薔薇の姿は映っていなかった。
瞬は、氷河だけを真正面から見詰め、そして彼に言った。
「そんなに好きな人がいるんなら、氷河は絶対にその人のこと諦めちゃだめだよ。好きな人と二人で幸せになるための努力をするのが、人が恋するってことで、人が生きるってことでしょう?」
「あ? ああ、そうだな」
「そうだよ。最初から自分たちは幸せになれないって決めつけて、そのための努力を放棄するなんて間違ってるよ。僕はそう思う」
「それは――同感だが……」

それは同感でも。
なぜ瞬が突然そんなことを言い出したのかが、氷河にはわからなかった――のだろう。
わかっていない顔で、氷河は、瞳を潤ませて“そんなこと”を訴える瞬の顔を見詰め返すことになった。
「氷河の好きな人には、氷河と一緒にいられることがいちばんの幸せだと思う。だから――」
しかし、今の瞬は、氷河のそんな戸惑いに思い至る余裕も持てないほど必死で、そして、氷河の恋の成就以外のことは何も見えず何も考えられないほど一心不乱だった。
なにしろ、“これ”には氷河の幸福がかかっているのだ。
氷河の戸惑いなど、気にかけてはいられない。
「だから、告白してみて。最初から諦めるなんて、希望の闘士である聖闘士にあるまじきことなんだから。そんな臆病、きっとアテナだって怒るよ」

「それは……」
なぜ“瞬”が“氷河”にそんなことを言うのか――。
瞬の真意が、氷河には、本当に、全く、心の底からわからなかったのである。
瞬を見詰める氷河の視線は、つい瞬の心を探るためのものになっていた。
「しかし、俺なんかに好きだと言われても、言われた方は迷惑に思うんじゃないか」
氷河が入れた“探り”を、瞬が言下に否定する。
「そんなことない……! だいいち、それは氷河が決めることじゃないでしょ。決めるのは、氷河の好きな人だもの。氷河が心を込めて告白したら、それを迷惑に思う人なんて絶対にいないよ。勇気を出して!」

『決めるのは、“氷河の好きな人”』と言った瞬が、『それを迷惑に思う人などいない』と決めつける。
瞬はすべてを承知した上で煮え切らない男を煽っているのかと、氷河は疑うことになったのである。
瞬がそうすること自体には何の問題もないし、もしそうであるならば、それは氷河にとっては歓迎すべき事態ですらあった。
ただ、氷河は、“瞬が、人を煽り挑発する行為を為している”ということに、違和感を覚えたのである。
氷河が知っている瞬は、控えめで遠慮深く、他人のためになら驚くほどの積極性や大胆さを見せることもあるが、自分のためにそういう行動をとることは まずない人間――だったのだ。
その瞬が、氷河に言い募ってくる。

「ね。勇気を出すって約束して。できるだけ早く『好き』って告白するって言って」
「それはまあ……できるだけ早く そうしたい――とは思うが」
「いつ? いつ、好きだって言うの?」
「……」
これは、挑発というより強要、へたをすると脅迫である。
とても『まあ、そのうちに』程度の答えでは、瞬は氷河を許してくれそうになかった。
そういうわけで。
いつになく強硬な瞬の態度に気圧けおされつつ、氷河は、
「あ……明日、告白する……」
と、瞬に宣言してしまったのである。

「ほんとだよ?」
瞬が、氷河に念を押してくる。
「ああ」
「きっとね?」
「も……もちろんだ」
「うん。なら、いいんだ……」

そこまでの言質を取ってからやっと、瞬はその肩から力を抜くことになった。
それから、一度 顔を伏せる素振りを見せてから、その視線を城戸邸の庭にある花たちの方へと巡らせる。
「綺麗な花……本当に綺麗」
そう呟く瞬の声は、まるで人生の義務をすべて 成し終えた老人のそれのように、気負いも力も覇気もなかった。

「この花たちがおまえの気に入ったのなら、それはよかった。お……俺は、しばらく席を外すぞ。ちょっと考えを整理――いや、花に悪酔いしたようだ」
そんなことを言いながら、氷河が、キツネにつままれたような顔をしてラウンジを出ていく。

平静を取り戻した瞬と共に その場に残された星矢と紫龍は、初夏の静寂の中で己れの美しさを誇示しているような夏薔薇の香りに包まれながら、途轍もなく嫌な予感に襲われていた。






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