すべてが解決するはずの翌日。 もちろん、星矢の“嫌な予感”は的中する。 なにしろ、“嫌な予感”というものは、いつでも、どんな時にでも、的中するためにこそ生まれ出てくるものなのだ。 その日、瞬の真意を全く理解できないまま、『瞬は正式なプロポーズを期待しているのかもしれない』と、これまたあさっての方に勘違いをした氷河は、黒の上下で身を固め、グレイのシルクのネクタイをしめて、ラウンジに下りてきた。 礼装正装とまではいかないが、準礼装レベルの出で立ちである。 その氷河を迎えたものが、『しばらく旅に出ます。捜さないでください』という瞬の書き置きだったのだから、これは哀れを通り越して滑稽ですらあったろう。 瞬はどうやら、今朝、皆がまだ眠っている時刻に城戸邸を出ていってしまったようだった。 「これはいったいどういうことだっ !! 」 それでなくても、朝食前からディナー向けのタキシードを着ている氷河の勘違い振りに頭痛を覚えていた星矢と紫龍は、頭に響く氷河の怒声に顔をしかめることになってしまったのである。 どういうことも こういうこともあるかと、二人は、(体調が許すなら)氷河に怒鳴り返してやりたいところだった。 だが、今は、自分のものでも他人のものでも大きな音声を避けたかった紫龍が、極力ボリュームを抑えた声で氷河に告げる。 「それはまあ……。瞬はおまえの告白を聞きたくなかったんだろう」 「勇気を出して告白しろと言ったのは瞬の方だぞっ! なのに、肝心の瞬がいないんじゃ、俺は瞬との約束を果たせないじゃないかっ!」 「そうは言っても――。瞬は、おまえはどこぞの女の子に惚れていると思い込んでいるんだ」 「なに?」 頭痛を耐えていることを示すため、紫龍が右手で自分の額を押さえる。 しかし、氷河にとって紫龍は、命をかけた戦いを共に戦ってきた 一瞬ぽかんと呆けた顔になった氷河は、次の瞬間、紫龍たちの頭痛を更に厳しいものにするための大声をラウンジ内に響かせていた。 「どーして、瞬はそんな誤解ができるんだっ! 俺は瞬の前で女の話なんか一度もしたことはないぞっ !! 」 氷河の雄叫びには、一片の虚偽も含まれてはいなかった。 確かに氷河は、昨日も、昨々日も、その前の日も、そのまた前の日も、瞬の前で女の話などしたことはない。 氷河はいつも、いつの時でも、瞬の話だけをしていたのだ。 そんな氷河に好きな“女の子”がいると瞬に信じ込ませてしまったのは、確かに氷河ではなかった。 紫龍は、自身の頭痛が更に重篤なものになることを覚悟して、そのあたりの経緯を氷河に白状するしかなかったのである。 そうしたところ、案の定。 「キェルケゴールの阿呆が美少女と淫行条例で何がどうしただとお〜っっ !!!! 」 軽く3分は残響が残るほどの氷河の大声は、本当に頭の鉢が割れてしまうのではないかと思えるほどの激痛を、紫龍にもたらしてくれたのだった。 「こ……この俺が、遠慮だとか自己犠牲だとか、そんな馬鹿げた悪徳の持ち主だと、瞬は本気で思っているのかっ。瞬じゃあるまいし!」 「確かに、この場合に限って言えば、瞬のあれは悪徳だな」 「貴様、俺の瞬を侮辱する気かっ。瞬が悪徳なんか持っているわけがないだろう! 瞬は、そこいらの図々しい女共と違って、控えめで遠慮深いだけだっ !! 」 ここはぜひ、『おまえと違ってな』と突っ込みたいところである。 体調さえ許すならば、そうしていただろう。 だが、今の星矢と紫龍は、その体調が最悪だった。 可能な限り低く小さな声で、可能な限り頭を揺らさないよう注意して、紫龍が氷河の主張に異議を唱える。 「瞬と違って、俺はおまえを誤解してなどいないぞ。おまえは、瞬が他の誰かと幸せそうにしていても、自分の方がもっと幸せにできると考えて、平気で瞬を略奪するような男だ」 「その方が瞬のためなんだ。あたりまえじゃないか!」 勝手なことを、氷河は自信満々で言い切ってしまう。 星矢と紫龍は嘆息を禁じ得なかった。 「俺たちがさ、我儘で自分勝手で横暴で、瞬以外の仲間を紙クズ程度にしか見てない おまえを許せるのはさ、刺繍だの童話だのに全然興味がないくせに、『刺繍で見る童話の世界展』なんぞのチケットを手に入れるために東奔西走してさ、瞬が好みそうなレストランを血眼になって探してさ、瞬の好きなケーキ屋の地図を頭の中に叩き込んでさ、そんなふうに馬鹿馬鹿しいくらい健気に頑張ってるのに、おまえの気持ちが全然瞬に通じてないからなんだよなー」 「哀れの極みだ。同情に耐えない」 氷河は決して ものぐさでもなければ、ずぼらでもない。 むしろ彼は人並み外れた努力家なのだ。 自分が欲しいものを手に入れるためになら。 どんなに傲岸不遜で思いあがった男でも、その努力には頭が下がるし、その努力が報われていない現実は、その男への同情心を生む。 だから、星矢と紫龍は、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間を紙クズ扱いする男を 切って捨てることができないのだった。 極めて傲岸不遜で、報われない努力を続ける その男は、そしてまた、夢を諦めることを知らない男でもあった。 「瞬を捜すぞっ。見付けて、連れ戻す。おまえら、瞬の行きそうなところに心当たりはないか!」 氷河は、こんな事態になっても、この恋を諦めるつもりはないらしい。 彼がしているのは、そういう恋なのだ。 それがわかっているから――星矢と紫龍は、我儘で報われることを知らない この男を見捨ててしまうこともできないのである。 「瞬の家出先の心当たりつってもなー……。アンドロメダ島はもうないし、おまえこそ、心当たりはないのかよ」 星矢に反問された氷河が、しばし考え込む素振りを見せる。 短い黙考ののち、彼が辿り着いた“心当たり”は、 「シベリアだな」 というものだった。 宇宙の中心に自分がいる氷河の世界観に、星矢は激しい疲労を覚えることになったのである。 「なんでシベリアなんだよ! 家出をしたのは、おまえじゃなく瞬なんだぞ。もっと手近なところはないのかよ。二人で行った思い出の場所とかさ」 「やかましい! 俺には、瞬のいるところが思い出の場所なんだっ」 「だーかーらー。俺が言ってるのは、おまえの思い出の場所じゃなく、瞬にとっての思い出の場所のことなんだってば。いろいろあるだろ。瞬と初めて手をつないだ場所とか、初めてキスした場所とか」 「貴様は本当に馬鹿だ。そんなことをしたら、瞬が俺を恐がるようになるかもしれないじゃないか。俺は、あの瞬相手に そんな危険なことをするほど愚かな男ではないぞ!」 愚かでない男が、こんな事態を招くことがあるものだろうか。 氷河の自信の根拠が、星矢にはどうしても理解できなかった。 「その危険なことをしといてくれれば、瞬も こんな馬鹿げた勘違いはしなかったと思うけどなー」 「うるさいっ! 貴様は瞬がわかっていない! 瞬にそんなことをしても安全と言えるようになるためには、あと1、2年分は親密さを増す必要があるんだ。俺は絶対に瞬を俺のものにしなければならない。そのためには慎重の上にも慎重を重ねた行動をとらなければならんのだ!」 努力家の氷河は、忍耐強く慎重な男でもあるらしい。 長期的展望を持ち、その実現のために確実に地歩を固めつつ ランクアップしていく堅実さも、彼は備えているようだった。 問題は、氷河が、その力を発揮すべき時と場合の見極めができていない――ということなのだろう。 恋の場面でそんな慎重さや悠長さを発揮しても、それは恋の情熱に欠けていると思われるだけではないか。 いくら繊細で臆病なところのある瞬が相手であっても――否、だからこそ かえって――、恋という場面では通常の3倍の性急さと強引さが求められることが多いというのに。 「ともかく、こういう時には俺ならシベリアに行くから、瞬もきっとそこにいる」 「だから、その自信はいったいどこから湧いてくるんだよ……!」 星矢は呆れ顔でぼやいたのだが、瞬が本当にそこにいるから、人生とは不可解なものである――。 『無駄足になるに決まっているからやめておけ』と言って引きとめる星矢たちを振り切ってシベリアに向かった氷河は、そこで瞬を掴まえ、その勢いのまま恋の告白をし、手をつないで、キスをして、それだけならまだしも、それ以上のことまでしてしまったらしい。 「ああ、すまん。夕べ、瞬に無理をさせすぎてな。瞬が立って歩けないというんだ。日本に帰るのは、しばらくあとになる」 城戸邸で待機していた仲間たちに、氷河が浮かれた口調で連絡を入れてきたのは、彼がシベリアに向かってから10日以上の時間が経過してからのことだった。 『いったい おまえの“夕べ”は何百時間あるんだ』と突っ込みを入れる元気や覇気は、氷河ほどタフではない星矢には持ち得ないものだった。 氷河の恋の行く末を本気で心配していた自分が愚かだったと、星矢は心の底から思ったのである。 |