幸福な結婚が約束された名家同士の美しい婚約者たち。
だが、そんな二人の仲を裂いてやろうと考える者が、ヴェローナの町にも いることはいたのである。
とはいっても、それはヴェローナで生まれ育った者ではなく、ヴェネツィアからヴェローナの町にやってきて、町の貴紳たちを贔屓客にしている娼館で評判をとっている高級娼婦だった。

「町で一、二を争う名家の跡取りで、金もあれば、姿もいい。若くて、腕っぷしも強くて、剣の扱いも巧み。そんな いい男を目の前にして、誘惑を仕掛けないなんて、ヴェローナの女はみんな根性なし、女として失格だよ!」
彼女はそう放言して、ヴェローナ生まれの同僚たちが止めるのもきかず、ヒョウガの気を引くために あれやこれやの手管を弄し始めたのである。

ヒョウガが娼館などに出掛けていくことはなかったので、彼女の誘惑は、当然のごとく、主に街中の、人目のあるところで為されることになった。
そして、その場面を目撃することになった誰も彼もが、神の意思に背くヴェネツィア女の振舞いに眉をひそめることになったのである。

ヒョウガは最初のうちは、異国から流れてきた女の誘いに乗るでもなく、拒むでもなく、のらりくらりとかわしていたのである。
本音を言えば、着飾らなくても目をみはるほどに美しく清楚な婚約者を見慣れているヒョウガの目には、脂粉に包まれた彼女の顔は全く美しいと感じることのできないものだった。
それでもヒョウガが彼女をあっさり袖にしてしまわなかったのは、
「勝手に親が決めたことに逆らう勇気も持てない お坊ちゃんなの」
と、彼女に挑発されたからではなかった。
青春のただ中にいる若者の義務・・として、親や町の年長者たちに反抗する姿勢を貫いてはいるが、そのために心惹かれない女と関係を結ぶほど、ヒョウガは愚かでもなかった。
そうではなく――。

身ひとつでイタリア中を渡り歩いてきたというだけあって、彼女は、男の心身を操る術に長けていた。
操る術に長けているということは、対峙する人間の心を読み解く術に長けているということ。
飽かずヒョウガにまとわりついているうちに、彼女はやがて、ヒョウガの真意に気付いてしまったのである。

「決められた世の中の流れに諾々と流されたくないって気持ちは わかりすぎるほどにわかるけどさ、あんまり意地を張ってると、自分を不幸にするよ。あんたの婚約者だって、悲しい思いをすることになる。目の前に、確かな幸福に続く道がはっきり開けてるのに、あえて脇道に逸れようとするのは馬鹿野郎のすることだとは思わないの」
ある日、いつになく真面目な口調で彼女にそう言われ、ヒョウガは初めて彼女の顔を真正面から見詰めることをした。
そこにあったのは、シュンほどには美しくもなく、まして清らかでもないが、シュンと同じほどに真摯な目をした一人の女の顔。

イタリアのどの町でも必要悪として容認され、中には貴族より豪勢な生活をしているものも数多くいる、“娼婦”と呼ばれる女たち。
そんな女たちのすべてがそうだとは言えないだろうが、少なくとも彼女は、彼女が選んだ(選ばされた?)商売が、神の意思に背くものであることを知っているらしい。
決められた世の中の流れに諾々と流されたゆえの今なのか、その流れに逆らったがゆえに彼女の今があるのかは、ヒョウガにもわからなかったが。
よく見れば、まだ若いのに、彼女の瞳と表情には、これまで彼女が生きてきた人生の深い年輪が刻まれていた。

「ちょうど見物人がたくさんいる。今 ここで、きっぱり あたしを振ってみせるんだよ。それであんたは幸せになれるんだから」
それが衷心からの忠告だったのか、あるいは、それすらも娼婦の手練手管だったのか、ヒョウガにはわからなかった。
もしかしたら、そうヒョウガにそう告げた彼女自身にも わかっていなかったのかもしれない。
いずれにしても、ヒョウガは彼女の忠告と提案を実践することはしなかった。

「まあ、でも、俺たちは いい友人同士にはなれそうじゃないか。最近、商売の方はどうなんだ? 俺に言い寄ったりしていたら、町の皆の反感を買って、客足が遠のくことになるんじゃないのか?」
ヒョウガはそう言って、彼女に笑いかけた。
一度 切なそうに目を細めた彼女が、すぐに勝気な眼差しをヒョウガに返してくる。
「その点はご心配なく。あたしを改心させようっていう義侠心に燃えた男たちが、引きもきらずにあたしのところに通ってきてくれてるから」
「それはよかった」
ヒョウガが彼女に浅く頷く。

そんな経緯で。
その日その時から、ヴェローナの町で一、二を争う名家の跡取り息子にしてヴェローナの希望の星でもある男と、他国から流れてきた娼婦との間に、奇妙な友情が成立することになったのだった。


ヴェローナの町の者たちは、そういった変化に実に敏感かつ迅速に反応した。
ヒョウガが彼女の誘惑をのらりくらりとかわしている時には何も言わなかった町の大人たちは、ヒョウガが礼儀正しい友情を彼女に示し始めた途端、二人の仲を勘繰りだしたのである。
親はもちろん町のうるさがたからも一度として厳しく叱られたことのないヒョウガが、険しい顔をした両親に呼び出しを食らったのは、それから5日後のことだった。

その頃には、モンタギュー家の総領息子が 他国から流れてきた娼婦とねんごろの仲になっているという噂が、ヴェローナの町を席巻していたらしい。
なにしろ、事は、ヴェローナの希望の星の将来に関わることである。
モンタギュー家にヒョウガの不行状を注進する者たちはかなり多くいたらしく、我儘放題に育ててきた息子を呼びつけたモンタギュー家の当主夫妻の目には、深い憤りと困惑がたたえられていた。
その段になって初めて、ヒョウガは、その事実――モンタギュー家の一人息子とヴェネツィアから流れてきた娼婦の間の特別な友情が町中の噂になっていること――を知らされたのである。
両親の険しい顔の訳を知らされた途端、ヒョウガの頬はさっと青ざめた。

「町中の噂になっている……とは、まさかシュンの耳にも――」
「入っているかもしれん。キャピュレット家からは何も言ってこないが、あちらから責められない分、我が家には立つ瀬がない。おまえはいったい自分の立場がわかっているのか! あれほど美しい婚約者がいるというのに、おまえはいったい何が不満なんだ!」
「シュン……!」
ヒョウガの耳には、既に父の声は届いていなかった。
不実な婚約者が、彼の婚約者の名を呻くように呟き、掛けさせられていた椅子から、その椅子を蹴飛ばすほどの勢いで立ち上がる。

「知られて慌てるくらいなら、最初から不品行など……ヒョウガ、親の話を聞けっ!」
モンタギュー家の当主が息子を引きとめるより先に、ヴェローナの希望の星は、父の執務室を飛び出してしまっていた。
「まあ、ヒョウガがシュンさんを好きでいることは誰もが知っていることですから。あんなに綺麗な娘さんに男の格好でいることを強いるなんて、独占欲から来ることに決まっているじゃありませんか。そんなヒョウガの我儘にまで素直に従うシュンさんの健気がわからないほど、私たちの息子は愚かではありませんわ」

だから心配は無用だと細君になだめられ、ヒョウガの父の怒りが少しずつ静まってくる。
ヒョウガを乗せた馬が土埃を巻き上げて門から出て行く様子を部屋のバルコニーから眺め、彼は低く呟いた。
「美しく、素直で、出自も身分も申し分なく、自分を心から慕ってくれる婚約者――。シュン殿が完璧な婚約者すぎるから、ヒョウガは反抗してみせずにはいられなかったのかもしれないな」
息子の完璧な婚約者が、息子の不行状を優しく許してくれることを、彼は全く疑っていなかった。






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