「シュンっ! あの噂はおまえの耳にも届いているのかっ !? 」
勝手知ったるキャピュレット家の邸宅。
20年前、かのロミオがジュリエットに募る思いを打ち明けるために取りついたというバルコニーをやり過ごし、馬を飛び降りたヒョウガは、キャピュレット邸の東側にあるシュンの庭へと向かったのである。
悲しい出来事に出合った時には必ず、シュンが その庭の花たちに慰めを求めることを、ヒョウガは承知していた。

ヒョウガが察した通り、シュンはそこにいた。
血相を変えて飛び込んできた婚約者の姿を認めると、シュンは、陽光に向かって花を咲かせることをためらっている白い薔薇の蕾のように、切ない眼差しをヒョウガに向けてきた。
長い沈黙を作ってから、小さな声で、シュンが、
「ヒョウガは自由なの」
と呟く。
最悪の噂はシュンの耳にまで達しているらしい。
ヒョウガはすぐにシュンの誤解を打ち消した。
「誤解だ、信じるな。俺が愛しているのはおまえだけだ!」
「ヒョウガ……」

露に潤んでいるような瞳を、シュンが大きく見開く。
ヒョウガに『愛してる』なとどいう言葉を告げられたのは、シュンはこれが初めてだった。
シュンの前では、ヒョウガはいつも、『爺さん婆さんの遺言が何だ』『親たちの言いなりになってたまるか』と、そればかりを繰り返していたのだ。
ヒョウガの態度の豹変に、シュンは驚き、戸惑い、最後に力なく青白い瞼を伏せた。
「ヒョウガ。ヒョウガは僕以外の人と恋をしても結婚をしてもいいんだよ。お祖父様やお祖母様たちの遺言に縛られるなんて馬鹿げてるって、ヒョウガはいつも言ってたじゃない。ヒョウガは自由なの」

「今更! 俺は生まれた時から、おまえの恋人でおまえの婚約者だ。親や祖父母たちの言うことに諾々と従うのが癪だから反抗してみせていただけで、俺はおまえ以外の者に目を向けたことなど一度もない!」
「ヒョウガ……」
「誤解だ。彼女は、俺がおまえを愛していることを知っている。だから素直になれと、ヴェローナの町のことを念頭に置かず、ヴェローナの町のためではなく俺のために言ってくれた ただ一人の人で――俺は彼女を大切な友人の一人だと思ってはいるが、彼女はおまえとは違う。おまえは、俺の命そのものだぞ!」
「あ……」

生まれた時からヒョウガしか見ていなかったのは、シュンも同じだった。
誰からも恋し合うことを期待されていた二人。
その期待の正否を考えるより先に、周囲の期待を重荷に感じるより先に、シュンはヒョウガに恋をしてしまっていた。
自分勝手で我儘な、だがすべてを許せてしまう ただ一人の愛すべき婚約者。
シュンにとって、ヒョウガはそういう存在だった。

この恋が実ることは許されないのだと知らされた時にはもう、シュンはヒョウガへの恋に落ちてしまっていたのだ。
これは生涯ただ一度の恋だと確信できるほどの激しさで。
だが、その恋は許されることのない恋だった。
シュンは実は男子だったのである。

シュンを胎内に宿した時、以前から周囲の重すぎる期待に傷付けられていたシュンの母の心と身体は、忍耐の限界に達しかけていた。
生まれてくる子が男子だった時、神の意思と町の住人の期待に背く存在となった母子はどうなってしまうのか。
初めての可愛い我が子が、呪われた子として、その誕生を祝われることもなく、皆に憎まれ疎まれることになるのか。
我が子の行く末を思うだけで、母の胸は潰れてしまいそうだったのである。

覚醒した状態でうわ言を言ったり、ふいに意識を失って倒れることが多くなった妻に、彼女の夫は言ったのだった。
女子を産まなければならないという強迫観念から、愛する妻を解放するために。
「気に病むんじゃない。たとえ生まれた子が男子だったとしても、その時には女子と偽って育てればいいだけのこと。今回が男子でも次は女ということもあるだろう。そうなった時に婚約者をすげ替えればいい。いずれにしても、子供たちが恋のできる歳になるのは十年以上先のことだ。その頃には、この町も、モンタギューもキャピュレットもどうなっているか わからない。だから、今は、自分の身体をいとうてくれ。このままでは、私は、我が子だけでなく おまえまで失うことになる。他のことは何も考えなくていい。私のために心安らかでいてくれ。どんなことになっても、おまえのことは、私がこの命をかけて守るから」

夫にそう言われて、キャピュレット夫人は気が楽になったらしい。
否、愛する夫の言葉によって、彼女は強くなったのだ。
生まれた子が男子とわかった時、彼女はいささかも取り乱すことなく、
「この子は私が守ります」
と言い切ってみせたのだった。

娘と偽って育てられることになった息子に、もっともらしい理由をつけて男の衣装をまとうことを許したのは彼女だった。
それは、シュンの反抗心の現われでもなく、ヒョウガの我儘でもなく、シュンの母の強く深い愛情だった。
そんな母の切ない愛に、神も同情したのだろう。
シュンはヴェローナの町のすべての者たちの期待以上に美しい“娘”に成長していった。

シュンは、ヒョウガに恋するようになるまで、自分を女と思ったことも男と思ったこともなかった。
シュンは、シュンの両親の子であり、ヒョウガの婚約者であり――シュンはシュンだった。
そしてシュンは、物心ついた頃から、ヒョウガだけを見詰めてきた。
二人はいつも一緒で、家族のように一緒で、シュンはヒョウガの美点を誰よりもよく知っていたし、ヒョウガの短所のすべてを認め受け入れることができた。
それほどまでに、シュンは、ヒョウガと同じものだったのだ。
そんな二人が独立した別々の個人だということをシュンが自覚したのは、がヒョウガへの恋を知った時。
ヒョウガを愛しているから、ヒョウガを不幸にはできないと、シュンは思い詰めるようになっていたのである。

だからシュンは、『モンタギュー家のヒョウガが、ヴェネツィアから流れてきた怪しげな女と昵懇じっこんの仲になっているらしい』という噂を父から知らされた時、心から安堵したのである。
ヒョウガは彼の婚約者に縛られていない。
ヒョウガの婚約者はヒョウガを不幸にせずに済むのだ――と。
安堵して、そして、悲しかった。

その悲しみに耐えるために、こうして無心に咲く花たちを眺めて 心を慰めていたというのに、まるで突然の嵐のようにシュンの前に姿を現わしたヒョウガがシュンに告げた言葉は、『俺が愛しているのはおまえだけ』――。
シュンは、心臓が張り裂けてしまいそうなほど苦しくて――苦しくて苦しくて、どうしようもなかったのである。

だが、シュンは、苦しいことに慣れていた。
ヒョウガに恋した時から、シュンは、自分に与えられた時間のすべてを“苦しみに耐えること”にだけ費やしてきたのだから。
ヒョウガを逆上させないよう、努めて抑えた声で、シュンはヒョウガに言ったのだった。
「嬉しい。僕、嬉しい。ヒョウガが僕を好きでいてくれて」
――と。
シュンのその言葉を聞いて、ヒョウガがほっと安堵したような顔になる。
彼の完璧な婚約者に――実は不完全な婚約者に――少し きまり悪そうな微笑を浮かべてみせるヒョウガに、シュンはいつもの通りの穏やかな笑みを返した。

その時、シュンは決意したのである。
ヒョウガの幸福を守るために、彼の不完全な婚約者をこの世界から消し去ってしまうことを。
ロミオとジュリエットを死に追いやった毒薬と短剣が、町の教会の祈りの小部屋の奥の戸棚にしまわれていることを、シュンは知っていた。






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