仕合わせのある場所






ゴールデンウィークは過ぎ、夏休みには早い時季。
俺は6月にしては涼しい風の吹く、某有名リゾート地に来ていた。

ここは、明治時代に某スコットランド系カナダ人が故国の風景に似ているというので別荘を建てた時から外国人別荘地としての開発が始まり、いつからか 宮城県の高山、長野県の野尻湖と並んで日本三大外国人避暑地の一つと数えられるようになった土地らしい。
日本国で第一等の避暑地として名を馳せることになったこの地も、今では、避暑地・別荘地というより観光地の風情が強くなり、訪れる者も別荘持ちの人間よりホテルやコテージの宿泊客の方が多いそうだ。
かく言う俺もその一人で、この地がそういう経緯で有名になった場所だなんてことは、ホテルの部屋のデスクに置かれていたリーフレットを読んで初めて知ったわけなんだが。

初めて訪れた超有名避暑地。
シーズンには、主に関東方面からの客で賑わうらしいが、今はちょうど その賑わいの谷間に はさまれているのか、ホテルのロビーやラウンジの人影はまばらだった。
まあ、たとえシーズン中でも、ホテルの中が人でごったがえしていたら、西洋人が開拓した品のいい避暑地というイメージが壊れて、訪れた者たちを興醒めさせることになるだろうが。
予約もせずにふらりとやってきて、飛び込みで部屋を確保できるんだから、もしかしたら今 ティーラウンジでお茶を飲んでいる客の大半は、このホテルの宿泊客じゃなく、近隣の別荘に来ている奴等なのかもしれない。

世の中は不況の嵐が吹き荒れているらしいが、ここにやってくるような者たちは、そういったことに あまり深刻な影響を受けてはいないらしい。
まあ、それなりの格を備えた古くからの別荘地だ。
こういうところに別荘を構え、この時季にのんびりお茶をすすっていられるような奴等は 昔からの資産家なんだろう。
不況で資産が減った減らないと騒いでいるのは、昔からの資産家ではなく、ごく最近、特に資金運用で資産を増やした成金ばかりなのに違いない。

そんな時季、しかも平日に、そんな場所でのらりくらりとしていられるのは、俺が学生でもなければ勤め人でもないから。
働かなくても暮らしに困らない、優雅な身分の人間だからだ。
さすがに、この地に別荘を構えようとは思わないが、その気になれば、それは不可能なことじゃない。

半年前、両親が飛行機事故で死んで、俺の懐には多額の遺産が転がり込んできた。
それまで、学校に行くか、仕事に就くか、せめて家業を手伝えとうるさく言っていた親たち。
死んでせいせいしたとは思わなかったし、事故死の知らせを受けた時には、いったい俺はこれから一人でどうすればいいんだと自失したのも事実だ。
二浪して何とか潜り込んだ大学に馴染めずに中退し、それ以降 丸々1年、就学も就労もしていなかった俺には、親の死を嘆き、親の不在を不安に思うための時間はたっぷりあった。
生きている時には鬱陶しいだけだった両親に、俺がどれだけ頼り、甘え、守られていたのかということを、嫌になるほど理解したさ。
一度に、そして一瞬で家族を失ってしまった俺はこの世界に一人きりで、もう誰も俺を守ってくれないし、叱ってもくれない。
その事実を認め受け入れざるを得ないことは、本当にものすごい恐怖だった。

親父たちの四十九日が過ぎると、俺が感じていた悪夢のような恐怖と不安は、現実的な不安に変化していった。
一応成人している大の男が、いつまでも家の中に引きこもっているわけにはいかない。
俺は、俗に言うニートなんだろうが、決して引きこもりなわけじゃなく、ただの怠け者だった。
そんな怠け者の俺でも、養ってくれる親がいなくなって、『これから自分はどうやって食っていけばいいのか』という超現実的な不安に出合ったら、その不安を取り除くために必要なことはする。
で、俺は我が家の経済状態を色々調べてみたんだ。
その結果、俺は、我が家には意外に資産があったことを知った。

俺の親父は、都内の、主に下町に20店舗ほどの小さな店を展開している惣菜屋チェーンを経営していた。
いつも くたびれた長いエプロンを引っ掛けていた姿を思い出すと笑うしかないんだが、親父はあれでも一応 代表取締役社長という肩書きを持っていた。
店はどれも小さくて、“町の惣菜屋さん”の域を出てなかったから、あれこれ整理して、相続税を払ったら、俺の手許には古ぼけた自宅と疲労くらいしか残らないものとばかり思っていたんだが、事実はそうじゃなかったんだ。

俺は、家業を継ぐつもりは最初からなかった。
惣菜屋なんて、全然格好のいい仕事じゃない。
その上 俺は、店の経営なんてわからないし、フライの揚げ方も知らない。
家業は、誰かに譲るか、引き取ってくれる人がいなかったら さっさと廃業するつもりでいた。

で、親父の片腕として惣菜屋を切り盛りしてくれていた専務取締役(これまた、いつも油の染みがついたエプロンを引っ掛けている50絡みのおっさんだ)に そういう話をしたら、店の売却額が軽く見積もっても数億になるっていうんだから、ぶったまげた。
親父がお袋と汗水垂らして大きくしてきた惣菜屋は、どの店も本当に小じんまりとした、言っちゃ悪いが小汚い店だった。
繁盛しているのは知っていたが、儲かってるとは思っていなかったし、店の半分はテナントで、土地建物は親父の持ち物じゃなかったんだ。
だが、どの店も立地がいいらしく、借りたい奴は腐るほどいて、権利を譲渡してくれるのなら多額の立ち退き料(と言っていいのか?)を出すという話もあるらしい。
それだけじゃない。
親父たちは事故死だったから、二人分合わせて、億近い補償金。
更には、民間の保険会社から災害給付金がついて倍増しになった保険金。

家業を人手に渡し、とてつもない贅沢さえしなければ、一生遊んで暮らしていけるくらいの金が俺のものになることがわかって、俺はひとまず安心した。
自分が今では億万長者なんだって自覚ができると、気も大きくなった。
惣菜屋を買い取れるものなら買い取りたいが高額すぎて手が出ないという専務取締役に、当面は今まで通りの営業を続けてくれと言ってやると、おっさんは涙を流して喜んでいた。

『児孫のために美田を残さず』は正しい考え方なのかもしれない。
命を永らえるための心配は不要とわかった途端、俺は元の怠け者に戻り、俺の怠け癖には拍車がかかった。
あくせく働かなくても生きていくのに何の支障もないとわかったら、誰だって面倒事は避けたいと考えるだろう。
どんな苦労やトラブルが待っているかもしれない社会や企業の中に、誰だって あえて飛び込んでいこうなんてことは考えないさ。

たとえば、それなりの付き合いのカノジョがいて、彼女と結婚する意思があるのなら、世間体もあるだろうし、子供ができた時に親が無職じゃ聞こえが悪いだろう――なんてことを考えて、形だけでも社会的地位を得ておこうという気にもなるかもしれないが、あいにく そんなカノジョは俺にはいない。
そして、自分ひとりを養っていくだけなら、親の遺産だけで十分だ。

自慢じゃないが、俺は、至って冴えない風貌の持ち主だ。
金はあるんだから、嫁は手に入るかもしれないが、俺みたいな風貌の男がカノジョを作るなんて至難のわざ。
昨今は、真面目で誠実なのに恋愛に積極的でない草食系男子というのが流行っているそうだが、俺はそういう輩とは違う。
恋愛に積極的でないのは、最初から無縁と諦めているからで、要するに 女に もてないだけ。
恋に限らず何事にも積極的でないのは、貪欲にならなくても暮らしに困らないからだ。
これは親父たちが生きている時にもそうだった。
今は、へたに金だけはあることがわかってしまったせいで、理想が高くなってしまったってのもあったかもしれない。

カノジョがいないことを“負け組”属性と考えるのは、冴えない風貌をしていて、かつ 金も持っていない男たちだけなんだということを、俺は知った。
金を持っていたり、いかにも もてそうな風貌の男にカノジョがいなくたって、人はそれを、たまたまそういう時期なんだろうと思うか、でなかったら 選り好みしているだけなんだと思うだろう。
周りの奴等がそう思っていることがわかっていたら、誰も自分を負け組だとかみじめだとかは思わない。
人に見下される心配がないのなら、カノジョなんて絶対に必要なものでもないだろう。
男が躍起になってカノジョを求める理由の半分は、それだと思う。
人に負け組と思われたくないっていうプライド。
だが、今の俺には、自分のプライドをかけられるものが他にちゃんとある。
“金”という、誰もが欲しがるものが大量に、俺の手許にはあるんだ。

俺は、それが許されるんだから、自分は死ぬまで 日がな一日ごろごろして生きていればいいんだと思っていたし、実際そうしようとも思っていたんだが、やがて、20代前半で楽隠居というのは なかなか苦痛を伴う生き方だということがわかってきた。
1ヶ月くらいなら、そんな生活もいいさ。
だが、自分はこれから死ぬまで何十年も ただごろごろしているのかと思うと、こんな俺でも、『いったい自分は何のために生きているのか』なんてテツガクテキなことを考えてしまう。
誰にも迷惑をかけない代わりに、誰からも必要とされない、俺という男。
そんな男は、この世にいてもいなくても同じことなんじゃないだろうか。
ぐーたら生活を2ヶ月も続けると、筋金入りの怠け者だったはずの俺でも、そんなことを考えるようになってきていたんだ。

で、今後の身の振り方を静かなところで考えようと思い立ち、俺はここにやってきた。
人生の思索の土地に ここを選んだことに大した意味はない。
ただ何となく――この土地にはセレブなイメージがあって、聞こえがよさそうだと思ったから。
要するにミーハー根性だ。
そんないい加減な考えでやってきた この土地で、俺は瞬に出会ったんだ。






【next】